『天国の午後』山本信行(『蜘蛛の糸』)
この辺りは、ほんわかとしたやわらかい光と空気に包まれています。立って歩いていても、なんとも云えない柔らかな感覚の足元、これが天国ということなのでしょう。 本当に信じられないほどに清浄で透明な水をたたえた池が点在し、その […]
『三つの条件』太田純平(『三つの宝』)
廊下から女子の声で「男は顔じゃね?」「いやいや性格だから」なんて会話が聞こえてくる。どうせ僕は――なんて卑屈になりながらも、男子便の個室の中で和牛ステーキ重弁当の蓋を開けた。トイレで食べないと野球部におかずを盗られるっ […]
『朝子の後悔』中村市子(『地獄変』)
幸輔があの「手」に一目惚れしたのは、ある授業で彼女の斜め後ろの席に座った日だった。前の席から回ってくる出席確認表をつまんだ長い指先がふいに視界に現れ、目の前にひらりと紙だけを置いて消えていった。その手の動きが、葉の上で […]
『出雲での出会い』岩﨑奈美(『出雲神話』)
みな子は、秋も深まったある日の朝、リュックサックひとつ背負って出かけました。三十代に差しかかり、なんだかうまくいかない日常を離れて、ふいにどこか遠くへ行ってみたくなったのです。行き先も決めずに、兵庫県の神戸駅から電車を […]
『四諸茶々村拾遺』相馬光(『遠野物語』)
あの日は四諸茶々(しもろちゃっちゃ)の辺りで長雨が続いておったで、五諸茶々(ごもろちゃっちゃ)の畑の様子を見に行こう思いまして、独りで山ァ行きました。 四諸の人らは、あの頃五諸の者とは仲悪うしとりました。むしろ二諸茶 […]
『おしまい食堂の夜』大町はな(『夜汽車の食堂』)
*** どこをどうして歩いてきたのか、自分でもさっぱりわからないが、とにかく僕は、その店の前に立っていた。辺りはとっぷりと暮れていて、頭のちょうど真上の方に、満月が心許なく光っていた。 かつて僕が住んでいた場所は、星の見 […]
『未来を映す鏡』三坂輝(『よくばりな犬』)
深夜2時22分の鏡には、未来の自分が映るという。 小学生の頃に聞いた都市伝説なんだけれど、それが本当なら34歳のいま、見てみたい。 1駅先にあるカレー屋での遅番シフトがほぼ毎日。カギ閉めもわたしの担当だ。アルバイト […]
『カレーか不倫』真銅ひろし(『ロミオとジュリエット』)
不倫、この行為がどれ程愚かな事か分かっている。 しかもダブル不倫。 でもしてしまったのだ。心も体ももう以前のようには戻れない。 よくありがちでも、恋に落ちるときは落ちる。顔が好み、そして性格が好み、雰囲気が好み、 […]
『バーテンさん、話を聞いてください。』真銅ひろし(『安珍・清姫伝説』)
夜の12時を回ったバーは客が少なく静かだ。カウンターには自分1人、奥のテーブル席に1組の若いカップルが並んで座っているのみ。 カウンターの上に置いたスマホが震える。 「・・・。」 メールを受信した。私はゆっくりとスマホ […]
『マスク売りのおっさん』室市雅則(『マッチ売りの少女』)
メリークリスマスク! いくら浮き足立つクリスマスイブだって、こんなコピーに惹かれるバカはいない。 そりゃそうだ。 高級ブランドや有名メーカ製でもないただの不織布のマスクを『お、こりゃ良いところにマスクが売っている […]
『ミライちゃん』柿沼雅美(『キューピー』)
1年前、アメリカ生まれのミライが消えたと、大騒ぎになった。まさか政府用の飛行機に忍び込んだだとか、船の荷物の中に体を押し込めたとか、いろいろな話があった。 もしかしたら国外に出た可能性があるという報道が今更になって出 […]
『枯れ木に花を』ウダ・タマキ(『花咲かじいさん』)
今日は一日中晴天に恵まれるでしょう。絶好の行楽日和となり、各地では混雑が予想されます- AMラジオの単調な音声。色褪せた畳とヤニに黄ばんだ襖、薄っぺらい湿っぽい布団へと静かに吸い込まれてゆく。閉ざされたカーテンの隙間 […]
『ホップステップ』小山ラム子(『王様の耳はロバの耳』)
「そのため息どうにかならない?」 左側から聞こえてきたその声に美空はすぐに反応できなかった。ため息をついていたのも無自覚だったし、何よりその男子がそんなことを言う人だとは思っていなかったのだ。 「聞いてる?」 隣の席 […]
『生者の書』裏木戸夕暮(『死者の書』)
眩しい。 瞼を開ける、ただそれだけの動作に時間が掛かった。 「あぁ、お戻りになりましたね」 と誰かが言った。他の誰かが小声で 「7回目」 と呟いた。 目は採光の調節に手間取っているが、経験から状況は分かる。 「・ […]
『新しい生活』榎木おじぞう(『小人のくつや』『セロ弾きのゴーシュ』)
勤務時間中だというのに眠ってしまったらしい。やはり体を動かしていないからだろうか、このところ夜に眠れなくて日中にウトウトしてしまうことがある。朝起きて、始業時間になったらパソコンをたちあげ、一日中机に向かって座っている […]
『彼女が求めた赤』斉藤高谷(『地獄変』)
美術部の顧問になって結構経つが、ヨシノのような生徒はちょっといない。聞いたところによると、彼女の才能は既に小学生の頃から開花していたという。小中を通して色々な賞を総ナメにし、高校は私立の美術系へ進むかと誰もが思ったよう […]
『泡沫のお守り』根岸桜花(『人魚姫』)
ある時代、ある場所に小さな島があった。謎の古代遺跡があるでもなく、噴火寸前の火山があるわけでもない。大したものは何もない、移住してきた人々が創り上げた漁村があるだけのちっぽけな島である。海の幸に恵まれ、住民たちは特に不 […]
『益荒男の風』牛久松果奈(『雨月物語 蛇性の婬』)
友人の郁子から連絡があり、私たちは十年ぶりに会うことになった。家事はそこそこにして、身支度に時間を費やしたのは、郁子に会う嬉しさと、専業主婦になって、あまりの自然体の顔であったからだ。高校三年生の時、同じクラスで、大半 […]
『無敵の蠅取りばあさん』サクラギコウ(『貧乏神と福の神』)
私の住む町内に朽ち果てそうな家がある。住んでいるのは78歳の藤波久江さんというお婆さんだ。町内の人はこの家をゴミ屋敷と呼んでいる。ゴミは玄関先まであふれ、積みあがったゴミ袋で出入りができない状態だ。 それらの苦情を受 […]
『おやすみ』香久山ゆみ(『白雪姫』)
――「おやすみ」―― 耳元で声が聞こえる。 うるさい、うるさい。私はぎゅっと目を瞑り、羊を数える。羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、四匹、五匹、六匹、七匹……。だめだ。もう少しで深い眠りに就けそうだったのに、引き戻されて […]
『夜空の月』吉岡幸一(『かぐや姫』)
「ごめんなさい。和也さんとは結婚できません」 一度は受け取った誕生日プレゼントの薔薇の花束を返しながら、姫子は頭をさげました。 「まって、いきなりどうしたんだい」 和也が驚くのも無理がありません。ふたりは来年の春には […]
『梅の花の絵』中杉誠志(『梅若七兵衛』)
広島生まれのおれは、就職先も決まらないまま大学を出ると何も考えずに上京して、五年ほど事務系職の派遣社員として働いていたんだが、法制度にしたがって正社員に格上げされる寸前で契約を切られ、人生なんてクソだと思った。裏スロや […]
『だからボクは、今がいちばんしあわせ』サクラギコウ(『浦島太郎』)
「さいきん、ふと死んでしまいたくなるんだ」 空が笑っちゃうほど綺麗だった。ボクは砂浜に寝転んで呟いていた。 「誰かいないのか、おまえに生きてて欲しいって思ってるヤツ」 隣にいる亀が言った。ダメなヤツだと言いたげだ。い […]
『それがわたしの復讐だ』小山ラム子(『さるかに合戦』)
「うわっ! あぶな!」 危うくコンソメスープをこぼすところであった。教室から保健室までは結構な距離がある。 「失礼します」 保健室の中央にある机にはすでに一人分が用意されている。事前に担任の先生が持ってきてくれている […]
『ほたろの木』洗い熊Q(『光る風景』)
――私の初恋の相手は四ノ宮亮くんです。 そう言いきれる程、印象的な思い出のある彼。 その後の私の人生にも影響した人でした。 外灯が転々と灯る夜の田圃道。一緒に歩く主人が急に言った。 「あ、ほれ。“ほたろの木” […]
『カルテット』千田義行(『ブレーメンの音楽隊』)
私が4人から連絡を受けたのは、今年の1月から7月に至るまでの約半年余りのうちなので、あらためて唐突かつ立て続けだったことが分かる。 それぞれの文面は、あるものはあまりに急速で、あるものはきわめて陽気で、またあるものは […]
『Early to kill girls』室市雅則(『アリとキリギリス』)
僕はいじめられている。 僕をいじめているのは同じクラスの女の子たち三人組。彼女たちは、ちょっと可愛くて、男子から人気があって、毎日を楽しそうに過ごしている。明るいから先生たちのウケも抜群だ。 その一方で、彼女たちは […]
『世の中から時計が消えた夜』もりまりこ(『シンデレラ』)
ふいに冷蔵庫の上の時計をみてみたら、針がとても信じられない角度で、時間を教えていた。そんな時間はとっくに朝の役割だったはずなのにって思う間もなく、止まっていることを知った。 壊れたんだ。ボタン電池買いに行かなきゃって […]
『俺と彼女の最後の日』中村ゆい(『人魚姫』)
夏の太陽が、駐輪場をじりじりと焼く中、女子生徒たちの華やかな笑い声が響き渡る。 佐藤はとにかくモテる。いつでも女子が寄って来るし、その全員に対して優しい。 顔が良いヤツはそれだけで得だよなあ、なんて思いながら彼の隣 […]
『版画と林檎ジュース』東野美矢子(『白雪姫』)
薄暗がりの中、チエコは彼女と対峙した。長いテーブルの上に置かれた一枚の木版画に表された女性は、憎しみと嫉妬で歪んだチエコの顔に目もくれず、平然と髪をとかしていた。チエコは突然何かを思いついたかのように、はっと鋭く息を吸 […]