小説

『朝子の後悔』中村市子(『地獄変』)

 幸輔があの「手」に一目惚れしたのは、ある授業で彼女の斜め後ろの席に座った日だった。前の席から回ってくる出席確認表をつまんだ長い指先がふいに視界に現れ、目の前にひらりと紙だけを置いて消えていった。その手の動きが、葉の上で羽をはためかせながら水を飲み飛び去って行く、色鮮やかな南国の蝶のように見えた。なんというか、しなやかで、生命力に溢れていて、ゴーギャンの絵を思い出した。何かを「美しい」と感じた初めての瞬間だった。しかし、すぐに不安に襲われ教室を見回した。あの手の美しさにみんな気づいているだろうか?もし、誰も気づいていないのなら、気づいてしまった自分が絵に描き残さなければならないのではないか……?それは不思議な体験だった。幸輔はこれまで絵をちゃんと描いたことも、描きたいと思ったこともなかったのだから。だけど、この衝撃は絵でしか表現できないと直感した。
 その日以来、幸輔は毎週必ず彼女の斜め後ろの席に座りスケッチした。彼女の姿はなぜかこの授業でしか見かけなかった。はじめは手ばかり描いていたが、次第にスカートから覗く程よく筋肉質な足や少しとがった耳、すっと伸びた背中など、見えるところはほとんど描き尽くしていった。どのパーツも幸輔の心をかき乱し、描けば描くほど彼女を知っていくような気がした。
 しばらくするとスケッチでは物足りなくなり、幸輔はいつか本格的に彼女の絵を描く日のために、一人暮らしのアパートにこもって油絵やデッサンの勉強に没頭するようになった。油絵用の道具を一式揃えるのに実家からの仕送り2ヶ月分を使ってしまい貧困を極めたが、寝食も忘れるほど夢中になっていたので丁度良かった。ネットには様々なレクチャー動画が上がっており、独学でも思いの外メキメキと画力は上がっていった。
 自分の中に眠っていた能力が日々開発されていく感覚に幸輔は夢中になった。これまで18年間、ただ手のひらからさらさらと流れ続けていた無色透明の水のようだった時間が、絵の具のようにねっとりとした、確かな質感と色を持った時間に変わった気がした。そこには、生きている、という手応えがあった。幸輔は嬉しかった。名前も知らない彼女のおかげで、自分の人生がやっと始まったような気がした。
 彼女と初めて言葉を交わしたのは、絵を描きはじめてしばらくたった頃だった。ある日の授業中、彼女が頬杖をつくような雰囲気で、頬の代わりに手の平にりんごをのせた。あまりにも不自然な光景だったが、幸輔は何も考えずにスケッチした。終業のチャイムが鳴ると彼女はりんごをしまい、あー痛い痛い、とでも言いたげに手首をほぐした。そしてふいに振り向くと幸輔のノートを覗き込んだ。突然のことに固まる幸輔をよそに、彼女は勝手にノートをパラパラとめくった。どのページも、後ろから見た彼女のスケッチであふれていた。
「これ、私だね」
「え、違いますけど」
 幸輔は動揺していた。彼女を描くために日々絵の訓練はつんでいたが、彼女と話す訓練にはまだ手すらつけていなかったのだ。彼女は、りんごを持った手のスケッチをじっと見ている。幸輔は言い逃れできないと思った。
「手が、ゴーギャンみたいだったんで」

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