小説

『朝子の後悔』中村市子(『地獄変』)

 自分でも何を言っているのか分からなかったが、彼女はなぜか褒め言葉と受け取ったようで嬉しそうに笑った。初めてちゃんと見るその顔は、首の傾け方が妙に色っぽく、大学1年には見えない大人びた印象だった。
「私はこの手、嫌い」
「え、なんでですか?」
 彼女は答えなかった。幸輔は何か言わないと、と焦った。
「なんで、りんご持ってたんですか?」
「メロンだと重いし」
「えっと……」
「うまいね、絵。好きなの?」
 好きか嫌いかという問題ではなく、描かなければならないのだ。だけど、それをうまく説明できる自信がなく、幸輔は曖昧にうなずいた。
「あの、名前、聞いてもいいですか?」
「森夕花。多分、けっこう年上」
 夕花は照れたように笑うと、台詞を読み上げるようにすらすらと自分のことを話し始めた。地方の国立大医学部を中退して、今年この大学の法学部に入り直したから、実は今21才だという。幸輔は予想外の経歴に驚き、勝手に知ったつもりでいた夕花が別人のように思えて急に寂しくなった。いつの間にか、教室には幸輔と夕花しかいなくなっていた。夕陽がオレンジに照らした夕花の横顔を見ているうちに、幸輔の心臓の鼓動はどんどん早まっていく。夕花の全てを見て、全て知り、そして、全てを描きたいと思った。全部脱ぎ捨てて、心も体もすっ裸の夕花の全部を……。
「絵のモデルになってください」
 幸輔は脇の下にべっとりと汗を感じた。
「もしかして、裸で?」
「いやいやいや、まさか、そんな。俺一応、童貞なんで。着衣からで大丈夫です」
「からで?」
「着衣で」
「ふーん」
 夕花が幸輔の部屋に初めてやって来たのは、この数日後だった。

 夕花は狭い部屋にこもる油絵の具の匂いに驚きながら部屋を見回し、窓にスマホを立てかけてRECボタンを押した。SNSもやっていないのに、夕花は、幸輔といる時よく動画を撮った。幸輔が絵を描くように、自分も思い出を記録したくなったのだそうだ。二人が入る画角になるよう、丁寧にスマホの置き場所を調整した。
「昨日、なんで自分の手が嫌いか、聞いたよね?」
「あぁ、はい。聞きましたね」
 イーゼルを準備しながら幸輔が答えた。
「この手、使えないんだよね」
「それは……哲学的な意味で、でしょうか?」
 幸輔は馬鹿に見えないよう、できるだけおしゃれな言葉を選んだが、夕花は気にせず自分の話をはじめた。医学部2年の実習で、献体された「ご遺体」を解剖するのに初めてメスを持った時、手がガタガタと震えだし止まらなくなったらしい。まずいと思って無理やり皮膚にメスを入れようとした時、担当の教授にひどく叱られたという。相手が生きた人間だったら……夕花は実習で手の震えが止まらなくなるたびに、患者の動脈を間違って傷つけ血の海になった手術室に立ちすくむ自分を想像した。自分がまともな外科医になれる気がしなかった。やり直すなら急いだ方がいいという親の言葉で、医者になる道を断念したのだという。幸輔は、夕花の無駄のない話ぶりから、自分に話すために辛い記憶を丁寧に整理して来たんだと感じた。

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