小説

『朝子の後悔』中村市子(『地獄変』)

 風呂からシャワーの音がする。浴室のドアが開いていて、真っ赤に染まったバスタブに夕花が目を見開いたまま、ピクリとも動かず浸かっているのが見えた。幸輔は夕花の名を呼びたかったが、声の出し方が思い出せず、その場によろよろと座り込んだ。瞳孔が開いた夕花の瞳が幸輔を見つめていた。床には、大量の睡眠薬が散乱していた。

「はい、カット!」
 幸輔が家を出ていった音が聞こえると、朝子は嬉しそうにそうつぶやいた。真っ赤に染まったバスタブから立ち上がり、壁に立てかけたスマホのRECボタンを切った。ちょっとやりすぎたかな、と思ったが、良いものが撮れて満足だった。
 法学部4年の春、朝子は3年連続で単位を落としている授業に1年生に混じって出席していた。必修科目だから今年こそ単位を取らなければ卒業できないのだ。同学年の友達は皆、就活まっ最中だったが、朝子は就活をしていない。朝子は女優の卵だった。16歳で小さな事務所にスカウトされたもののいまだ目が出ず、ずっと下積みを続けている朝子にとって今年は正念場だ。大学卒業までに目が出なかったら女優の夢を諦める、と両親と約束しているのだが、連戦連敗だったオーディションも、背水の陣なのか最近になって二、三次審査までは通るようになって来ていた。
もうすぐ尊敬する監督の新作のオーディションがある。何としても合格したい。選考はまず動画審査からだ。「後悔」をテーマに自由に演技した5分ほどのショートムービーを提出しなければならない。
 朝子は常々、演技指導のトレーナーに演技が大げさだ、もっと日常生活の延長のように役に入り込め、と言われていた。しかしやり方が分からなかった。そんな時、自分の絵をコソコソ「盗み描き」している地味な男子の存在に気づいた。朝子は自分に気のありそうなこの男子を相手役に何種類かのストーリーを妄想するうち、「夕花」という「医者になる夢を諦め、その決断を後悔する女子大生」というキャラクターを思いついた。あの男子相手に、夕花になりきろう。そうすれば「日常の延長」で役に入り込めるに違いない!
 夕花になりきるため、出会い系アプリで見つけた医学生と数週間付き合って、その生態を観察した。そして、後悔に苦しみどんどんやつれる役作りのために、1ヶ月で5キロ絞って貧血で倒れた。自分を「夕花」だと信じて疑わない幸輔を相手に演じるうちに、自分は元々「夕花」で、「朝子」の方が架空の人物のような気がした。自分の演技がどんどん進化していくようで嬉しかった。
 死ぬ結末にしたのは、あの監督の映画はヒロインが死ぬことが多いからだ。我ながらなかなか良い死にっぷりだったと思う。睡眠薬も瞳孔を開く目薬もネットで手に入った。
 幸輔は腰を抜かしたあと、随分と放心状態だった。そして、床を向いて何かごそごそしていたけれど、目も顔も動かせないからよく見えなかった。もしかしたら泣いていたのかもしれない。
 あとは撮りためた二人の動画をストーリーにまとめて編集するだけだ。朝子は今夜、お礼の意味も込めて幸輔と寝ようと思っている。裸の絵も描かせてあげるつもりだ。朝子は幸輔のことを好きになっている自分に驚いた。
 そこまで考えて朝子は我に戻った。そういえば、救急車なんか呼ばれたりしたら大変だ。早く幸輔にネタバラシしないと。朝子は床にばらまいた大量の睡眠薬が一粒残らずなくなっていることに気づくことなく、浴室を出ていった。

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