小説

『朝子の後悔』中村市子(『地獄変』)

 それからの1ヶ月間、夕花は数日おきに幸輔の家に通い「処女作」は完成した。しかし、そのひと月は、幸輔にとって不気味な印象だった。実は、絵は当初、数日で仕上げるつもりだったのだが、夕花の顔が日に日に変化していったので思ったより時間がかかってしまった。ふっくらとしていた頬は痩せこけ、目の下には日に日に濃いくまが染み付いていった。頬のラインやくまの濃さを何度修正しても、次会う時には前よりやつれていてきりがなかった。絵はトロピカルなゴーギャン風になるはずが、修正を加えるたび、どんよりした水墨画のような印象になっていった。幸輔には何が起こっているのか分からなかった。一度ちゃんと話を聞かなくてはと思いつつ、夕花のみずみずしい美しさが刻一刻と失われていくことに焦りを感じ、絵を完成させることを優先させてしまったのだ。
「最近、疲れてません?どんどん顔が変わっていくから大変でしたよ」
 完成した絵を力無く眺める夕花に、幸輔はなるべく冗談ぽく言った。
「実は、あんまり眠れなくて」
「どうして?」
 夕花は弱々しい眼差しを窓の方に向けた。点滅するスマホの赤いRECボタンが、夕花の青白い顔と対照的に見えた。
「医者を諦めたことが、今になって怖くなって。うちは父も姉も外科医だから、私も当然そうなるんだと思ってたのに、そうじゃない未来が来るっていうのがすごい怖い。夜中に急に目が覚めて不安でどうしようもなくなって、毎晩明るくなるまで公園を歩き回ったりしるんだ」
「そんな……」
「でも絵のモデルになってる時は、無心になれてありがたかったよ」
 幸輔は一人で夢中になって絵を描いていたことを後悔した。自分が夕花の生命力を吸い取って絵を完成させてしまったような気がした。自分にとって大事なのは、絵を描くことなのか、夕花なのか……。答えはすぐに出た。心も体も、夕花とひとつになりたかった。
「夕花さん、あの……」
 その時、夕花の目が怪しく光った。
「ねぇ、裸、描きたい?」
 幸輔は軽い眩暈を感じた。
 翌日、夕花から家に来るよう連絡を受けた幸輔は、画材ケースをリュックに詰め込み、イーゼルを抱えて部屋を飛び出した。気持ちばかり焦り、何度も足がもつれた。頭の中をベッドで夕花と抱き合い、神父の前で指輪を交換して、赤ん坊を二人であやし、老いた幸輔が老いた夕花の絵を描いている光景が駆け巡った。それは、童貞の幸輔に想像しうる限りの「愛」や「幸せ」だった。胸がいっぱいで苦しくなり大きく深呼吸した時、夕花の部屋に着いた。
 チャイムを押したが返事はなく、鍵は開いていた。
「夕花さん?」

1 2 3 4