薄暗がりの中、チエコは彼女と対峙した。長いテーブルの上に置かれた一枚の木版画に表された女性は、憎しみと嫉妬で歪んだチエコの顔に目もくれず、平然と髪をとかしていた。チエコは突然何かを思いついたかのように、はっと鋭く息を吸い、手の中の小瓶をぎゅっと握った。細い字体で印字された「林檎ジュース」の文字が、うっすらと光った。
「これ、チエコに似てない?」
日本版画史概論の授業の後、カラーコピーのプリントを指しながら同級生のサヤが背後から声をかけた。明治の木版画を牽引した溝地六樹の代表作、《髪をとく女》。青地に麻の葉模様の浴衣を身に着けた女性が、長い髪を櫛でといている。浴衣は胸元でわずかにはだけ、目線も櫛へと向けた無防備な格好であるが、穏やかな表情は、誰かに観察されていることを悟っているようにも見える。肌はうっすらと桃色を帯びた白色で表され、若さしか放つことのできない飾りっけのない美しさを湛えていた。
「そう?」チエコは笑いながらプリントに目をやった。
「すんごい似てるよ。目の感じとか、わたし、美人なの知ってるけど、気づかないふりしてるんだあ、みたいな表情。あと肌の感じね。似てるよね」
サヤは周囲に同意を求めた。常にチエコの周りに群がっていた七人の男性はそろって、うんうんうんと頷いた。
「似てます」
「似てる」
「似てますね」
「似てるで間違いないです」
「そりゃあ、似てるに決まってるでしょ」
「似てるね」
「チエコさんがモデルなんじゃないですか」
「そう?」チエコは再度言ったが、まんざらでもなかった。プリントを見ながら、チエコはまるで鏡の前にいるかのように、自分の髪に指を通した。
あれから20年。
卒業後は現代アートギャラリーの受付嬢として勤務を始めるが、一年も経たない内に、常連客の連れとして来場した十五歳年上のシンイチに見初められた。間もなくして結婚、退社、三人の子どもをもうけた。子育てがひと段落した頃、あまりにも時間を持て余したため、茶道、華道、着付け教室などに通い始め、シンイチもたいそう喜んで高い月謝を払った。美容に良いという、小瓶一本で一日分の食費が賄えるほど高級な林檎ジュースも、毎日欠かさず飲んでいた。上品な奥様ね、と近所では評判がよく、シンイチも海外の取引先とのビジネスディナーには、必ず着物姿のチエコを同行させた。