小説

『版画と林檎ジュース』東野美矢子(『白雪姫』)

 「六樹はお好きですか。随分熱心にご覧になっていたので」
 「ええ。学生時代に思い出のある作品で。大昔の話ですが」チエコは必死に心を静めながら答えたが、後悔した。どんな思い出ですか、と聞かれたらどうしよう。なんと答えたら良いのだろう。
 幸い店主は何も詮索しなかった。
 「この《髪をとく女》は初版で30枚ほど刷られたとされますが、これはとても状態が良いです。きっと真っ暗で、温湿度の環境も良い場所で眠っていたのでしょう。シミ一つありません。色も鮮やかなままです」
 チエコは作品から目を離さないまま、店主の言葉を反芻した。彼女は昔のまま。でも、私はシミもあるし、皴だってあるし、ほうれい線が目立つし、全体的に顔がたるんできたし、肌はあのような桃色を帯びた白ではないし、白髪も目立つし、何より、何より、私はもう若くない。再び自分の顔がガラスに映った。醜い、なんて醜いの。
 チエコは版画の中の女が憎らしくて仕方なかった。店主はつらつらと六樹の功績を語っていたが、チエコの耳には全く届いていなかった。この女を私の手で亡き者にしたい。この世から消え去りたい。
 「買います」
 あまりに突然の申し出に、店主も驚いたのか、即座に返答しなかった。
 「買います。お支払いをします」
 チエコは店主と目を合わさずに、受付の方へと向かった。
 「どうもありがとうございます」店主は慌てて、奥の助手に合図をした。
 「今日お持ちになりますか。会期終了まで展示させていただき、その後お送りすることもできますが」
 「今すぐください」
 「額はどうなさいますか」
 「額は要りません。飾りませんので」
 助手は何かただならぬものを感じたのか、それ以上問わなかった。作品は壁から下ろされ、額から外され、真っ平になるよう、二つの板に挟んで梱包された。
 帰り道、チエコは版画を地下鉄のホームのどこかに置き去りにしようかとも思った。しかし、それでは誰かに見つかって生き延びてしまうかもしれない。私がこの手で確実に消滅させなければ。チエコは家路を急いだ。

 居間のテーブルに作品を置いたまま、チエコは何時間その女を睨め付けていたかわからない。時折、林檎ジュースの瓶を口元に運びながら、どれだけ残酷なことをすれば気が済むか考えこんでいた。燃やそうか、鋏で切り刻もうか、シュレッダーにかけようか、どぶに捨てようか。いや、それでは足りない、私の憎しみが伝わるような、もっと痛めつけるようなことをしなければ。
 「ただいま」居間のドアががちゃりと開き、チエコはびくりと振り返った。
 「何か買ってきたのか」シンイチが言った。
 「ええ」チエコは出来る限り平静を装った。

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