小説

『版画と林檎ジュース』東野美矢子(『白雪姫』)

 自慢の妻だったが、それでも最近では若い女の気配をまとって、シンイチが帰宅することが多くなった。チエコは何も言わなかったが、どんなに頑張っても取り戻すことのできない何かを、少しずつ失っていることを悟った。六樹風の若い女性が、鏡に現れる日々はとっくに過ぎていた。

 茶道のお稽古の帰り道、チエコはよく銀座を散歩した。その日も新しく開店した花屋や、行列ができていたシュークリーム専門店の様子を眺めながら、当てもなく歩いていた。銀座が好きというよりも、たくさんの人や営みに囲まれながら、愉しく透明人間になれる感覚が好きだった。
 チエコは大きなショーウィンドーの前で立ち止まった。飾られた赤いワンピースを見るふりをしながら、ガラスに映った自分を眺めた。着物姿の自分は決して悪くなかったが、線の刻まれた額や目の周り、くすんだ肌、皮膚がだらしなく弛んだ首、垂れ下がった口元、そして黒髪に交じって鈍く光る白髪にぞっとした。思わず目を背けると、ガラス越しに小さな立て看板が視界に入った。
 「あ」
 チエコは思わず声を漏らした。「明治の木版画家 溝地六樹展」の文字によって、チエコはまるで何も起こらない単調な夢から叩き起こされたような衝撃を受けた。振り向くと、看板は小さな路地の入口に置かれているのがわかった。
 六樹。その絵師の名前だけで、普段は思い起こすことのない学生時代の光景が、突如と目の裏に広がった。「似てるよね」と言うサヤの声も蘇ってきた。大通りの活気とは打って変わって、路地は静まり返っていた。自分の草履の足音だけが響く中、画廊へと向かった。

 「いらっしゃいませ」
 ぎい、と扉を開けて入るなり、チエコは明るい室内を見渡した。あの娘(こ)はいるだろうか。麻の葉柄の浴衣をはだけさせて、周囲には無関心を装って髪をとく彼女は。
 いた。
 チエコは吸い寄せられるかのように《髪をとく女》へ突進した。記憶していたとおりの表情、身体、豊かな黒い髪、そして磁器のように冷たい白ではなく、落雁のような温かみのある白い肌。全く変わっていない。
 一歩引くと、版画を保護するガラスに、チエコの顔が映った。対して、自分はどうだろう。なんて変わり果ててしまったことか。もう誰も、六樹の作品を観てチエコを思い出す人はいないだろう。
 チエコは自分が信じられなかった。私は版画に嫉妬しているのだろうか。老いたばかりでなく、愚かにもなってしまったのだろうか。チエコは悔しさのあまり泣きたかった、叫びたかった、世の中にある六樹の作品全てを焼き尽くしたかった。
 「奥様」男性の声が背後で聞こえた。チエコははっと振り返った。

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