『走れ、お前はメロスではない』松ケ迫美貴(『走れメロス』)
メロスは困惑した。かの邪知暴虐の王の一件以来、メロスの生活は一転していた。メロスは、元は村の牧人であった。笛を吹き、羊と遊んで暮らしてきた。けれども、今は違う。シラクスの市で、王が拵えた立派な屋敷に住んでいる。羊群の番 […]
『この花々を植えたひと』泉瑛美子(『桃太郎(岡山県)』)
一家にひとり、桃太郎が必要な時代がやって来た。思うように動けないしがらみや悲しみが重なれば、ヒーローに救われたいと願うのも無理はない。なにせ彼が周りにかけた手間といえば、つめたい川の流れへおばあさんを踏み込ませたくらい […]
『粗忽ノーフューチャー』平大典(『粗忽長屋(江戸)』)
二二世紀初頭のことだ。 八さんは、ある日曜日、近所の浅草寺に寄ったついでに、商店街へふらりと散歩した。ちょうど肉屋さんの前に人だかりができていた。 「おぅすまねえ」好奇心が強い八さんは、野次馬を押しのけて、前に出る。 […]
『居残り夏休み』永佑輔(『居残り佐平次(江戸)』)
今日が終われば夏休みだってもんだから、子供らの足取りは夏休みを先取りしたような軽やかさ。 そんな中、ペタペタと間抜けな足音。ビーサンの主は、半ズボンに白いランニングシャツに日焼けした肌の平次だ。昭和85年生まれといっ […]
『夏鶯』草間小鳥子(『見るなのざしき(新潟県長岡市)』)
やるな、と言われたことでも一度はやってみないと気が済まない性分で、ずいぶんと損をした。手の甲の火傷の跡は、沸いた風呂に手を浸けてみたから。膝小僧の古傷は、裏山にあった崖の鉄条網に引っ掛けたから。「俺より先に死ぬなよ」、 […]
『まだまだこれから』ウダ・タマキ(『質おき婆(三重県松阪市)』)
窓の外をぼうっと眺めている。ここ数日降り続いた豪雨に櫛田川の流れはいつもより勢いを増してはいるが、昨日までの濁流は少しずつその色を薄め、陽射しを受けた川面はようやく輝きを取り戻すようになった。 こうして、櫛田川の動向 […]
『大阪アルプス』香久山ゆみ(『天保山の故事(大阪)』)
「え」 「え?」 何度か聞き返される。マスクをしたパーテーション越しの会話には未だ慣れない。慣れない場所だからなおさら。いい加減面倒になってぞんざいな返事をしたところ、ようやく耳に届いたようだ。 「なに、お前ひとりでそ […]
『龍の祈り』夏目会(『黒姫物語(長野県)』)
変な人間、それが女を初めて見た時の率直な感想だった。大沼池という池が私の住処であって、人なんて滅多に来ない。奥地にあるという事もそうだが、それ以上に軽々と村を滅ぼせるような恐ろしい黒龍がいるという噂が絶たないのだ、それ […]
『会いたい人』春野萌(童謡『赤とんぼ』)
電車の中で豪快に眠る村松さんと遭遇した茜は、彼女の顔が知人とそっくりであることに気付く。これから大好きな人に会いに行くという彼女に興味を抱き、感動の再会シーンに期待を寄せる茜だったが、ついて行ったその先で思いもよらない […]
『やまない、やめる、やめた』真白(『羅生門』)
ある昼下がりのことである。一人の女生徒が、雨が止むのを待っていた。すぐ止むだろうと昇降口の前で待っているが、なかなか止みそうにないほどの大雨だ。彼女は傘を家に忘れてしまったことを後悔していた。 彼女の他にも雨宿りをす […]
『仏斬り』N(『恩讐の彼方に』)
中部三郎右衛門は妻の静(しず)に懐剣で突かれたのを危うく避けた。それは三郎右衛門がまさに松尾一九郎から一太刀叩き込まれて危うく自分の刀で受けた瞬間だった。三郎右衛門は右足を畳に滑らせた。一九郎はつけ込み渾身の力で二度三 […]
『終わる時、新しい時』いいじま修次(『姥捨て山』)
「姥捨て山や、島流し! 世間を騒がすこのような心無い表現の報道に、私は誠に遺憾であります! この政策は国民の為、そして我が国を思えばこその決断なのであります!」 十年前――当時の首相は、テレビ、インターネット等の中継を […]
『人間ドッグ』高平九(『桃太郎』)
もっと笑って。会議室に並べられた3つのイスの右端に勇児の推し井坂きぬが緊張の面持ちで座っていた。きぬの武器は名前に負けないキメ細やかな肌、そして笑うと左頬に浮かぶ片えくぼだった。それさえ出れば役員面接だって楽勝なのだ。 […]
『Who is ぷりんせす』藤井あやめ(『シンデレラ』)
都心からそう遠くもない郊外の片隅。 緑生い茂る公園は、いつも誰かを温かく受け入れている。 初夏の太陽は真っ直ぐに地面を照らし、頬を撫でる風は透き通っていた。 砂場にしゃがみ込む三人の子供達。6歳位だろうか、小さな背中を猫 […]
『月一会議のシンデレラ』真銅ひろし(『シンデレラ』)
月一の会議。 幼稚園の今後の予定やら問題があった事など話し解決していく。 「あの、シンデレラの読み聞かせをやめたいんですが。」 会議の終盤、手を真っ直ぐ上げてこう提案したのはこの園内で一番のベテランである理子先生だ […]
『帽子の底』百々屋昴(『王様の耳はロバの耳』)
「なあ、墨田ってなんでいつも帽子かぶってんの」 下の名前を思い出せない同級生が、前の席からプリントを回しつつ言った。僕は「ああ」とか「いや」とか曖昧な返事を漏らす。うろたえる僕への興味を彼は失ったようで、そのまま前に向 […]
『アリス盗り』淡島間(『不思議の国のアリス』)
隣の学区のアリスが盗まれた、との一報が入ったのは、新学期が始まって間もない、九月の放課後のことだった。 「なんだって!? 奴はすぐそこまで迫っているのか!」 集められた図書委員たちは、色めき立った。 「夏休み前にはま […]
『あきらめよう』洗い熊Q(『諦めている子供たち』)
その日の夜は、この国はもう終わりだという空気で濁りきっている。 それは雪が降る中の満開の桜。 もう花が散り終わると思うか、この椿事に何かが始まると感じるか。 言い知れぬ不安。闇を重く肩に乗せ人々の活力を鈍らせる。 […]
『ある日、図書館で』石咲涼(『三枚のお札』)
娘を幼稚園に送り、返却期限を過ぎてしまった本を急いで図書館へ返却に行くと、ギャラリーで絵画展が開かれていた。 おばあさんがコロナ禍で、一人こつこつ描いた絵だそうだ。いつも慌ただしくて周りなんてよく見ていない私なのに、 […]
『朱美の物々交換』吉岡幸一(『わらしべ長者』)
「この鉛筆をあなたの持っている物と交換してくれませんか。なんだって構いません。いらなくなった物でも大丈夫ですから」 朱美は未使用のHBの鉛筆を一本手に持って道行く人に声をかけていた。 日曜日の午前九時、普通電車しか止 […]
『口うるさいレストラン』ウダ・タマキ(『注文の多い料理店』)
カタン、カタン、と、水の枯れた側溝の蓋を踏む音が闇夜に響き渡る。和樹はそれを聞いているのかいないのか、ただ、ぼうっと、しかし一歩一歩確実に音を奏で続けていた。ゆっくりと、コートのポケットに手を突っ込み、俯きながら。 […]
『豪雨』中村市子(『蜜柑』)
私は今、実家に向かっている。結婚してからの10年、数えるほどしか帰っていないが帰らなければならない事情ができた。上司とのダブル不倫がばれ、夫に家を追い出されたのだ。子供がいないこともあって離婚の話し合いは思ったよりシン […]
『月影』和織(『竹取物語』『内部への月影』)
部屋へ戻った光里(みつり)は、とりあえずベッドへ倒れ込んだ。外へ行きたいけれど、もう夜だから無理だった。月が出ている間は、外には出られない。七歳のときの事故のトラウマのせいで、彼女は直に月を目にすると、意識を失ってしま […]
『くずかごの中の正しさ』太田千莉(『走れメロス』)
メロスが目を覚ましたそこは見知った景色が広がる見知らぬ場所だった。シラクスの発展した町並みと、村の牧歌的な草原が互い違いに続く異様な風景。加えて、それらの全てはまるで定規を使わず手だけで描いたように輪郭が歪んでいる。一 […]
『バイ菌』N(『外科室』)
1 洋一と有紀は息子と3人、マンションで暮らしていた。有紀は夢を叶えて自分の美容室も持っている。洋一は大手の子会社だが営業所を預かっている。 洋一は、小学校の入学式へ向かう準備をしている妻と息子を目で追いながら、何か […]
『鷺』義若ユウスケ(『雪女』)
寒い冬だった。秋の終わりの大きな風が山の木々の葉を全て散らしてしまうと、夜ごと、ぱきぱきと幹の弾けるような音をたてて村は冷えていった。裸木の間をぬって山肌を駆け回る子供たちの吐く息が長くたなびき、宙に無数の白い輪を描い […]
『ピノキオの鼻のような由真のテイル』もりまりこ(『ピノキオの冒険』)
すごくネガティブなところがいま花開いているようなので、すぐになにかに甘えたくなって。誰かに、何かをそれはちがうと窘められて、すぐ縮んでしまう。 縮んだ後溶けてしまう。 蛞蝓に塩かけたときみたいに。 ピノキオの鼻も […]
『この道』山本(『この道』)
佳代はロビーで待っていた。 吹き抜けの天井に真っ白な壁、茶色い大きな柱時計、ガラス張りの入り口。柱ごとに置かれた観葉植物の間を縫うように、制服を着たスタッフたちが動いている。 フィンランドは佳代が一度は行ってみたい […]
『くつしたをはいたネコ』七海茜(『長靴をはいた猫』)
家の扉を開けて、誰もいない静かな空間に「ただいま」と声を掛ける。いつもはそんなことは言わないが、今日に限ってはついつい言ってしまう。 短い廊下を歩いてリビングの扉を開けると、この日のために綺麗に掃除した部屋が出迎えた […]
『襲名』坂井千秋(『庭』)
大量のフラッシュが焚かれる中、艶やかな純白の布が掛けられたテーブルの前に兄が座った。この日のためにあつらえた黒紋付に身を包み、晴れやかな顔をカメラに向ける。兄の隣には父が座る。厳格で、笑顔を見せることのめったにない父だ […]