小説

『バイ菌』N(『外科室』)


 洋一と有紀は息子と3人、マンションで暮らしていた。有紀は夢を叶えて自分の美容室も持っている。洋一は大手の子会社だが営業所を預かっている。
 洋一は、小学校の入学式へ向かう準備をしている妻と息子を目で追いながら、何か呟いた。
「何か言った?」
 有紀が洋一に問いかけたが、洋一は首を振って何も答えなかった。

「菌」と聞くと、「善玉菌」「悪玉菌」などと言うことばが思い浮かぶ。それは、人に有益かどうかで決まっている。有益なら「発酵」と呼ぶし、逆は「腐敗」になるのと同じだ。すべては、人の胸の内で決まることなのだ。
「善玉菌だな。善玉菌を増やしたのかな。私は有紀にとって、どんな菌だろう?」
 洋一の独り言に有紀がまた目を向けたが、有紀は今度は何も聞かなかった。
 かつて洋一が聞いた「バイ菌」ということばについて、洋一はこれまで一度も有紀に尋ねたことは無かった。そのようなエピソードが有紀にあるということを知っているということも話したことは無かった。だが不思議なもので、洋一の胸の奥底にある、有紀という女を愛おしく思う力の根源は、あのとき聞いた「バイ菌」ということばのようだった。それはしばらく増殖した。しかし自分と有紀の間には、新たに燃える火が灯っていて、この歳月の間にあったほかの困難と共に退け焼き尽くされた。これからは、記憶の端に追いやられ忘れ去られていくだろう。
「さっ、行こう!」
 洋一と有紀は、それぞれ息子の手を取り歩き出した。
 洋一は、息子の頭越しに有紀の頬にそっと顔を寄せ、軽く口づけた。有紀もまたそれに応えて、同じようにした。息子が上を向いて、不思議そうに両親のそのやりとりを見ていた。

 

 後藤洋一は高校の2年になった。2年生になって急に気になる女の子が出来た。今まで、女の子や恋愛に縁の薄かった洋一は、これが切っ掛けで、思いついたように自分の私服を気に掛けるようになった。流行の服なども欲しいと思うようになったのだ。
 洋一は中学生時代から、恋はしたが実ったことは無かった。風貌はそう冴えたものでは無かったが、真面目に優しげであることは多くのものが認めた。だが、若いからこそ、そのようなありふれた内面的な特徴だけでは、洋一の姿形をカバーしきれず、女の子にはアピール不足だったことは間違いない。それに、女の子とデートするにも資金はいる。洋一の毎月の小遣いだけでは、あらゆる面で資金が足りなかった。そこでアルバイトを始めることにした。親にしてみれば、それよりもやはり勉強をして欲しかっただろうが、洋一の心は、親の思うようには行かなかった。
「勉強でもスポーツでも、何かもっと自分を磨くことを考えればいいのにねえ」

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