小説

『まだまだこれから』ウダ・タマキ(『質おき婆(三重県松阪市)』)

 窓の外をぼうっと眺めている。ここ数日降り続いた豪雨に櫛田川の流れはいつもより勢いを増してはいるが、昨日までの濁流は少しずつその色を薄め、陽射しを受けた川面はようやく輝きを取り戻すようになった。
 こうして、櫛田川の動向を眺める私は思う。
「なぁにしとるんやろ」と。
 松阪で生まれ育った私は、三年前、夫に先立たれはしたが、ひとり悠々自適に松阪城跡近くの一軒家で暮らしてきた。しかし、老朽化した我が家を襲った台風が七十五歳を目前にした私の平穏な生活を脅かしたのである。
「今さらリフォームなんてしてもさ。一人暮らしも心配やで老人ホームなんてどう? 櫛田川の近くに新規オープンするみたいやからさ。なっ?」
「そんなん嫌やわ。私はここがええんさ」
 娘の提案を強く拒んだ。私には最期までここで生き抜く自信があったから。
 なのに……その翌日には雨漏りで腐った床に足を滑らせ、転倒して大腿骨頸部骨折による二ヶ月の入院ときた。
「母さん、退院したら老人ホームね。いい?」
 黙って首を縦に振るしかなかった。
 本望ではなかったが、住居も、私自身も、これ以上は胸を張って「大丈夫」とは言えやしなかった。
 娘は誰に似たのか何事にも用意周到、抜かりない。私の拒否など無視して、既に老人ホームへの申し込みを済ませていたようで、退院するとすぐにそちらへ移り住むこととなった。一度は帰宅して数十年の感謝を我が家に伝えたかったし、近所の人達に挨拶をしておきたかったが、名残惜しくなるだけと思うと案外あっさりと諦めがついた。

 ここ『櫛田の家』の定員は三十名。居室はまだ半分ほどしか埋まっていないように見えるが、日をずらして続々と入居者が引っ越して来るそうで、十月中には全員が揃うらしい。私はオープン初日にやって来た一人なので、少しばかり先輩ヅラして新人達を迎えている。今日は二名が入居予定。二階の共有スペースに座り、櫛田川の流れを見つめながらその時を待ち侘びている。楽しみな反面、何とも言えぬ虚しさを感じながら。そう、誰が来ようと私の気持ちが晴れることはない。
「来た、かな?」
 ガタン、と台車がエレベーターに乗り込む音が聞こえた。開いたエレベーターのドアの向こうには棚やテレビが積まれた台車を押す運送業者の若者の姿があった。職員に居室へと案内されていく。程なくしてエレベーターは動き出し、再びガタンと音を立てる。次は二階を通過して三階へと向かった。どうやら荷物の搬入が重なったようで、エレベーターが慌ただしく昇降を繰り返している。
 階数を示す数字が灯るのを見つめていると、今度はさっきよりも静かにエレベーターが二階へとやって来た。
 私はいよいよどんな人が現れるのかと、少し緊張しながらそちらを注視した。
 「二階です」とエレベーターが告げ、ドアが開く。その瞬間に「こんなことってある?」などと賑やかな声が飛び出した。そこには赤い花柄のスカーフが目を引く長身の女性と、息子と思しき人物に押された車いすに座る女性の姿があった。
 私は思わず立ち上がると彼女達に向けて歩みを進めた。私に気付いた二人も、間違いなくそれっぽい表情を浮かべた。三人の手が申し合わせたように絶妙なタイミングで重なり合う。

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