小説

『夏鶯』草間小鳥子(『見るなのざしき(新潟県長岡市)』)

 やるな、と言われたことでも一度はやってみないと気が済まない性分で、ずいぶんと損をした。手の甲の火傷の跡は、沸いた風呂に手を浸けてみたから。膝小僧の古傷は、裏山にあった崖の鉄条網に引っ掛けたから。「俺より先に死ぬなよ」、という父さんとの約束だけは、かろうじて守れているのだが。小学校に上がる前に亡くなった母さんの記憶はおぼろげで、でっかいけれど丸まった父さんの背中を追って大人になった僕の隣に今、浴衣姿のユイが座っている。
「行きと一緒。動かないね」
 帯をいじりながらユイがバックミラーへ首を伸ばす。花火大会の日の長岡は、市外ナンバーの車と観光バスで溢れ、深夜を過ぎても渋滞が続く。延々と続くテールライトは、夜空に散った花火のまるで残像だった。変わらないな、とハンドルから手を離し、眠気覚ましの缶コーヒーをすする。
 来月結婚するユイの両親とは、昨年末の帰省に合わせ挨拶を済ませたし、ユイと父さんとは、春先にオンラインで話をしてもらった。もう雪はたくさんだ、と僕の大学入学に伴う上京を待って南国へ移住した父さんは、パソコンの画面越し、日焼けした顔をほころばせた。「でも折角だから、ハルくんの生まれた土地も見たいな」というユイにこたえ、今回の遠出を計画したのだった。僕にとっては、久々の帰郷となった。
「実家があればよかったのにな。遠慮なく寝てて」
 ユイに声を掛け、ハンドルへ手を戻す。大丈夫ー、とあくびまじりの返事があった。ユイの大らかな性格には、毎度、救われる。信用を試すようなことをしない、まっすぐなところにも。
「あ」
 小さく声をあげたユイが、バックミラーを指す。
「ハルくん、あれ」
 見ると、ちらちらと瞬くライトが、渋滞から外れ山道へ消えるところだった。
「ねぇ、抜け道じゃない?」
 嬉しそうに僕のシャツの裾を引っ張る。ライトは確かに木立の間を駅の方へ向かって進んでいくようだった。
「行ってみない?」
「うーん、でも、駅に着くかどうかわからないし」
 しかし、僕も、いつまでも進まないこの状況には飽き飽きしていた。とどめをさしたのは、ユイだった。
「そうね。じゃあ、『やめて』」
 挑むようにユイが言い、だから僕は、ハンドルを切った。

 前方のライトへ目を凝らす。舗装されていたはずの道が、土と石ころだらけになった頃から、僕らは後悔していた。前も後ろも、真っ暗闇。引き返すこともできず、汗で滑るハンドルを握り、一心にちらちらと瞬く光を追った。
 あれが果たして車のライトなのかどうかも怪しくなってきた頃、突然、目の前が開けた。
 闇に浮かぶ、いくつもの橙色の灯。瓦造りの門構え。
「よかった!」
 ユイと僕は、顔を見合わせた。駅ではなかったにしても、こんな山道で立ち往生するより、ずっと良かった。
「旅館かな」
「民家じゃない」
「でも、やけにでかいぜ」

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