小説

『人間ドッグ』高平九(『桃太郎』)

 もっと笑って。会議室に並べられた3つのイスの右端に勇児の推し井坂きぬが緊張の面持ちで座っていた。きぬの武器は名前に負けないキメ細やかな肌、そして笑うと左頬に浮かぶ片えくぼだった。それさえ出れば役員面接だって楽勝なのだ。採用担当の端くれとしては、そういう贔屓は本来御法度なのだが、今回ばかりはなぜか人知れずきぬを応援してしまう。
 尾谷勇児は思わず笑みが漏れそうなのを我慢した。きぬの外見は普通の女子大生である。黒のスーツには若さが窮屈そうに押し込められ、頬がふっくらとして勇児の好みだった。だが、勇児がきぬに興味を持ったきっかけは彼女の提出した履歴書の記述だった。
 勇児が人事部の採用担当になってから5年が過ぎた。採用担当と言ってもいまだに応募者との電話連絡や書類の整理などの雑用しかさせてもらえない。
「坂田優(さかたまさる)ってお前が担当した奴だろう」
 先日、同期の小田慶二と飲んだとき、小田が真っ赤な顔でそう言った。丸顔の小田は酒が弱くてすぐに顔が赤くなった。普段は大人しいのに、酒を飲むととたんにセクハラ野郎に変身するることから、女子社員たちは陰で彼のことを「赤鬼」と呼んでいた。
「ああ。営業で活躍してるらしいな」
「俺がどんなに頑張っても取れなかった契約をあっさり取ってきやがった。いったいどんな手を使ったんだ」
 小田がビールの入ったコップをどんと音を立てて置いたので、周りの客たちが迷惑そうにこちらを見た。
 勇児は客たちに頭を下げて謝りながら坂田のことを考えた。先輩の小田たちを尻目に坂田は営業部でめざましい働きをしていた。人事を担当しているとたまにそんな新人に遭う。いったい何が違うのか。彼らはひたすら雑用をこなす勇児の傍らを特急列車のように颯爽と駆け抜けて行くのだ。
「運がいい奴っているもんさ」
 口に放りこんだ枝豆が苦い。
「いや。それだけじゃねえ。きっと何か裏がある」
 小田はその夜勇児の部屋でつぶれた。顔はすでに青鬼なっていた。汚物を片付けながら勇児は負け犬のような惨めな気分になった。
「きっとこの子も特急列車になって自分らを追い抜いて行く」
 勇児はしっかりと志望理由を語る井坂きぬを見てそう予感したが、けして不快ではなかった。
 それにしてもさっき全員にコピーが配ったのに、役員たちはきぬの履歴書の記述のことをなかなか話題にしなかった。
 勇児は彼女の履歴書を見たときのことを思い出した。下書きをした鉛筆の跡の残る誠実な履歴書だった。しかし、なんと趣味・特技の欄に「人間ドッグ」と書かれていた。勇児は一人で大笑いした。すぐにでも周囲の誰かに伝えたかった。だが履歴書の内容で笑いを取るのはいくらなんでもタブーだ。

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