小説

『人間ドッグ』高平九(『桃太郎』)

 それにしても「人間ドッグ」とはな。当然「人間ドック」の間違いだろう。でも、女子大生が趣味「人間ドック」というのも変だ。待てよ。もしかすると自分が知らないだけで「人間ドッグ」というものがあるのかもしれない。たとえば、新しいゲームとかバンド名とか。試しにネットで検索してみたが、それらしいものはヒットしなかった。それからは何かにつけて頭のなかに「人間ドッグ」という言葉が浮かんだ。
「あの、私からも質問よろしいでしょうか?」
 役員からの質問も出尽くして面接が終了しようとしていた。誰もきぬの「人間ドッグ」に触れなかった。万一不採用なら、2度と「人間ドッグ」が何かを聞くことはできないだろう。人事担当者の勇児が不採用のきぬにコンタクトを取ることなどできるわけがない。焦った勇児は思わず手を挙げていた。役員たちの視線が勇児を刺すのに耐えながら質問をした。
「あの、井坂さんの履歴書に『人間ドッグ』とありますが、これは最近流行のガジェットか何かですか?」
 勇児の言葉を聞いた役員たちの顔が固まった。一瞬困ったような表情を浮かべたきぬが口を開こうとしたとき、人事部長がいきなり面接終了を宣言した。
 その日、すべての面接が終わった後で上司である人事部長に呼ばれ、勝手に質問をしたことを叱責された。そしてその春から勇児は離島にある水産加工会社に出向になった。

「ねっ、あたしの言うとおりにして良かったでしょ」
 82歳のきぬは死の床にあっても美しかった。全身が痩せ細っても60年前と同じように肌の白さと片えくぼだけは健在だった。
 広い特別個室には勇児ときぬしかいなかった。ずれた酸素マスクを元の位置に戻して、勇児はきぬの青白い頬を優しく指で撫でた。
「ああ。君のお陰でいい人生だったよ。ありがとう」
 しなびた二重の奥で瞳が光った。

 離島に赴任してから3年目の夏、きぬが突然訪ねて来た。彼女が社長秘書に抜擢されたことは小田から聞いていた。
「わたしのせいでごめんなさい。ずっと気になっていたの」
 きぬはそう言って勇児に謝罪した。それから2人は急速に親しくなり、2年の遠距離恋愛を乗り切って結婚した。結婚の際にきぬは1つだけ勇児に注文をした。
夫婦になったら親類の生田の家に夫婦養子に入ってほしいというのだ。勇児の両親からの反対はなかった。もともと長男というわけではないし、それに生田の家は代々の資産家でもあったからだ。

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