小説

『くつしたをはいたネコ』七海茜(『長靴をはいた猫』)

 家の扉を開けて、誰もいない静かな空間に「ただいま」と声を掛ける。いつもはそんなことは言わないが、今日に限ってはついつい言ってしまう。
 短い廊下を歩いてリビングの扉を開けると、この日のために綺麗に掃除した部屋が出迎えた。元々部屋を散らかす方ではないが、いつもより念入りに掃除をしただけあって以前に比べて整理整頓されているし、何より気分が良い。
 部屋の中央に静かにバッグを下ろすと、早く出せと言わんばかりに中から鳴き声が上がる。
「今出すから、ちょっと待って」
 バッグの傍に腰を下ろして中を覗く。まん丸の瞳と目が合った。きっと知らない景色に戸惑っているのだろう。
 チャックを開けて外に出られるようにしてやるも、中々出て来ない。
 確かこういう時は手を出さずに待ってやった方が良いと本に書いてあったので、俺はその通りにする。
 そして暫く待っていると、まん丸の目でキョロキョロと忙しなく辺りを見回しながらそろりそろりと外に出てきた、今は亡き父の愛娘。
「これからよろしくな、ミソ」
 そう声を掛ける俺に、茶トラの猫は不思議そうに小さく首を傾げた。

 父が亡くなったのはつい先日のことだ。数年前から病気をしており、それが進行してぽっくりだ。母は俺が中学の頃に亡くなっており、父には兄妹もいない。息子である俺と、上の兄二人が父の唯一の身内だった。
 俺達息子は全員大学卒業と共に家を出ており、父は実家に一人で生活していた。俺達の誰かが残ると言う俺達の説得に最後まで父は頑なに首を縦に振らず。昔から動物が好きだった父は俺達が家を出たのをきっかけに猫を飼い始めたのだが、その後一年もしない内に父の病気が発覚。そして今回父が亡くなったことで引き取り手を話し合うことになったのだ。しかしその話し合いは、一瞬のうちに終わることとなった。
 というのも、一番上の兄はペット不可のマンション暮らしで、真ん中の兄の奥さんは動物アレルギー。末っ子の俺はペット可アパートに一人暮らしでアレルギーもない。その上在宅勤務中心で出社するのは月に一、二回程度ときた。
 俺自身は特に動物に興味があるわけではなかったのだが、かと言って保健所送りにするようなことは俺には絶対に出来ない。断る理由はなかった。寧ろ父が可愛がっていた猫から、責任をもって家族である俺が世話をしようと覚悟を決めたのだ。
 そうして今日、仕事場に近いこのアパートに父の愛娘である猫の「ミソ」を迎えた。
 周りを警戒しながら部屋の中を歩き回るミソをチラチラと確認しながら、実家から持ってきた猫トイレやら爪とぎタワーやらを設置していく。ミソを迎える前に色々と猫を迎えるにあたっての勉強はしたつもりだが、いざとなると本当にこれでいいのかという不安は大きい。
 設置を終える頃にはミソの方も部屋中を歩き回って危険がないことを確認し終えたらしく、爪とぎタワーの傍で毛繕いに精を出していた。

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