小説

『くつしたをはいたネコ』七海茜(『長靴をはいた猫』)

 しかし俺がアラームで起きることはなかった。
 最初に感じたのは寝苦しさだった。何か胸が重苦しく、息がし辛い。まるで漬物石でも胸に乗せられているような……。
「んー……」
 寝苦しさから逃れようと身じろぎをすると今度は何かが俺の頬をムニムニと押さえつけてくる。寝ぼけた頭でも犯人は分かっていた。
「ミソ……まだおきるには、はやいから、もうちょっと……」
 鉛のように重たい瞼を薄く開け、俺の胸の上に鎮座するミソを見る。柔らかい肉球で俺の顔をこねるミソに「やめて」と抗議をするも、俺の顔をパン生地だとでも思っているかのようにミソの手は止まらない。
 ミソが早朝からこんな風に俺を起こすなんて初めてのことだった。枕もとのスマホで時刻を確認するとあと三十分で起きる時間だ。そして俺の頭に、動物病院の先生が言っていた「小さな変化を見逃さない」という言葉が過る。
「うむ、起きるからこねないで、ちょっと、一旦どいてくれないかな」
 一生懸命俺の顔をこねるミソを抱きかかえてベッドの脇に下ろして、上体を起こす。
 なーん、と何かを訴えかけるように鳴くミソの顎を寝ぼけ眼のまま撫でてやると、嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らした。
 結局出社するまでの間、ミソにいつもと変わった様子は見られなかった。ご飯もいつも通りペロリと平らげたし、水もちゃんと飲んでいる。
 家を出る時になると、俺のことは早く起こした割に自分はキャットタワーで気持ちよさそうに眠っていた。その図々しさも可愛いと思えるのだから、罪な猫である。いや、俺が親バカなのだろうか。
「少し早いけど、その分早く帰ってこれると思うから。いい子にしてるんだぞ」
 眠るミソに小声で声を掛け、俺は静かに家を出たのだ。

 月に一、二度出社するときに使っているバスも、いつも乗っているものより二本早いバスに乗った。二本早いだけで乗車する人の多さは違い、やっぱりもう少し家でゆっくりしていつも通りの時間に出社すればよかったと早々に後悔する。
 会社についてデスクに向かうと早速いくつかの書類を確認して……十五分ほど経ったころだろうか。遠くから救急車の音が聞こえてきたのだ。それも一台ではなく何台分ものサイレン音で、「救急車通ります」という救急隊員の声と共に辺り一帯に響いている。
 社内も救急車が近づくほどに「なんだなんだ」と騒がしくなり、窓の外を覗く人も幾人かいた。
「どうしたんですかね」
 隣に座る山里くんが誰とはなしにそう問いかけ、誰もが不安そうな表情を見せる。
近くで何か事故でもあったのだろうかと社内のみんなが気もそぞろに仕事をしていた時だった。スマホでこのあたりの事故を調べていたらしい女性社員が「うわっ」と声を上げたのだ。
「見てくださいこれ! そこの大通りの先でバスが事故ったらしくて……」
「えぇっ、あ、ほんとだ……車体ボコボコになってる」
 女性社員の周りに集まった人がスマホを覗くなり顔を顰めており、それだけで凄惨な事故の様子がありありと目に浮かんでくるようで、思わず眉根を寄せる。

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