上野歩(うえの・あゆむ)
1962年、東京都生まれ。専修大学文学部国文学科卒業。94年に『恋人といっしょになるでしょう』で第7回小説すばる新人賞を受賞してデビュー。著書に『鳴物師 音無ゆかり 依頼人の言霊』『削り屋』『わたし、型屋の社長になります』『墨田区吾嬬町発ブラックホール行き』『探偵太宰治』などがある。
『キリの理容室』上野歩(講談社 2018年5月24日)
神野キリ、20歳。夢は理容師になって人気店を開くこと。
お金を稼げて、女性も通える理容店を開いて、自分と父親を捨てて男と出ていった理容師の母親を見返すため、理容専門学校を卒業したキリ。カットが下手なキリは、千恵子が一人で切り盛りするバーバーチーで修業することになるが、雑用ばかりの毎日。幼なじみの淳平は毎日のように実家に来るし、理容学校の同級生のアタルの存在も気になり始めて――。
衰退産業だなんて言わせない、床屋さん業界に理容女子が革命を起こします!
─新刊『キリの理容室』楽しく拝読させていただきました。理容師となった主人公キリが周囲の人たちの助けもあって成長していく姿に温かい気持ちになりました。まずは、上野さんが今回、理容室を題材にされたきっかけを教えてください。
僕は毎年夏に、中小企業が開発、考案した商品やビジネスモデルを表彰する事業を主催する財団から、受賞企業についての記事を書く仕事を受けています。1ヶ月ほどかけて15社前後を取材し、読み物風の記事にまとめるというものです。自分にとってその仕事は小説の題材探しにもなっていて。この作品もそれがきっかけで生まれました。
ある年に受賞した事業が、理容店グループが展開するレディースシェービングの専門店でした。理容室のお客さんのほとんどが男性というなかで、その技術を女性向けに展開させようというアイデアです。いまでこそ、そうしたお店は珍しくないかもしれませんが、当時は斬新だったわけです。
─なるほど。
その会社の社長は若い頃、理容師だった両親からお店を継いだものの、当初はまったくお客さんが来なかったそうなんです。いろいろと原因を考えた結果、たどり着いた答えは、「自分に腕がないこと」だった。それで、腕試しにとコンテストに出場してみたら、下から二番目という結果だったわけです。彼は、自分が下手なことを自覚していたけど、ここまで下手だとは思っていなかったと(笑)。それで、腕を上げるために自分より上位だった人を下から順番に一人ずつ見学にいきます。一足飛びに優勝した人のところに行っても理解できないけれど、自分に近い人から見ていけばなにかわかるのではないかと考えて。そうした努力の結果、彼は日本チャンピオンに輝くまでのスタイリストになったんです。僕はその話を聞いたときに、腕の悪い理容師が日本チャンピオンになるまでの物語をそのまま書こうかなと考えました。ただ、一方で、小説としてそれだけでいいのだろうか? とも思っていて……。
─ええ。
そうこうしているうちに数年が経ち、今度は別の床屋さんを取材することになります。顔のシェービングや頭皮のスパも提供するトータルメンズサロンという新しいコンセプトを打ち出した理容室でした。若い層を中心に床屋さん離れがはじまっていたなかで、美容院に行ってしまう人たちをなんとか取り戻さなければ、と考案された展開です。そこは最初、女性にも来てもらえるように、従来の床屋の象徴である赤白青のサインポールを外したそうです。けれども、どっちつかずの中途半端なお店になってしまって、結局は男性向けに戻したという話でした。僕は、そういった試行錯誤を聞いているうちに、一人の理容師の成長だけではなく、そこに重ねて、一般的にイメージされる町の床屋から変貌を遂げていく理容室を、つまり理容室の過去、現在、未来も小説で書いていけるのではないかと手応えを感じたんです。
─二つの理容室を取材したことがきっかけでこの作品が生まれたわけですね。取材記事という形と、小説という形ではどのような違いがありましたか?
取材原稿の場合、嘘を書くことはもちろんできないので、聞いた話から外れることはありません。一方で、今回のようなエンタメ小説の場合は、事実をベースにしたとしても、話を盛ることは当然あると思います。あるいは、面白いことを重視するため、あえて事実とは異なることを書くこともあります。それはつまり、リアルを追い求めることよりも、リアリティを示唆することの方を重視しているのだと言えるのかもしれません。この作品のなかではわかりやすい例として、国家試験の場面が挙げられます。現実には、実技試験のあとに筆記試験があるという順番を、僕はあえて逆にしています。校閲者からの指摘も入ったのですが、僕は、実技試験のあとに筆記試験が残っているより、実技試験が終わってからの結果待ちの方が、読者がカタルシスを得られると考えてそうしたわけです。
─それでは、登場人物についてはいかがでしょう? キリを温かく取り囲む商店街の人々がとても素敵だなと思いましたが、モデルとなったような人たちはいたのでしょうか?
商店街の面々は、自分が生まれ育った墨田区の人々をモデルにしています。当時は本当に『寅さん』の世界で。僕はよく近所の人たちにかわいがってもらっていました。ただ、具体的に誰がどの人、というよりは、子どもの頃に自分の周りにいた大人たちのエッセンスが登場人物それぞれにちりばめられているのだと思います。この作品の舞台は湘南のつもりだったんですけど、どうしても下町カラーが出てしまうのは、やはり僕の育ちが影響しているような気がします(笑)。
─そうだったんですね(笑)。
だから、登場人物のオジサンオバサン率が高い(笑)。主人公のキリは若い女性ですが、彼女には「こうしてみたい」という思いがあるだけで、実は物語を引っ張っているのは周りの大人たちです。大人たちがキリの夢を叶えさせるべく支援をしたり、立ちはだかったりしながら彼女を導いているんです。
─そのなかでもとくに大きな存在だったのが、キリが専門学校を卒業して最初に働くことになった理容室のチーちゃんでした。彼女の<自分の仕事に頭を下げると思えば、嫌な気持ちは消える。大抵のことは我慢できるものさね>という考え方がいいなと思いました。
その言葉の根底にあるのはやはり、「仕事にたいする誠実さ」なのではないでしょうか。昨日、別の取材のときにふと、日本人にとって仕事というのはある種の宗教のようなものではないかと思ったんです。日本だと多くの人が、たとえば、お葬式は仏教式だったり、クリスマスは教会に行ったり、結婚式は神道式で行なったり……というように、宗教とイベント的な付き合い方をすることが多いですよね。それよりもむしろ、仕事を一生懸命信仰しているように感じられて。僕はいろいろな職業の人にお話を伺う機会がありますが、みなさん仕事に対して誠実だし勤勉です。そして、誇りと自負を持っている。仕事にたいしてそこまで真剣に向き合っていれば、もちろん限度はありますが、大抵のことは我慢できるのではないかと思ったことがその言葉につながったのかもしれません。
─あとは、キリが理解できなかった彼女の父親と母親の関係も印象的でした。この二人について、上野さんはどのようにお考えになりますか?
キリのお母さんの巻子は愛情に恵まれずに育ったがために、自身にも愛情が欠落しているし、他人からの愛情に飢えてもいます。だからこそ彼女は、自分に自信を持てない一生を送ることになった。そんな彼女を支えたのが理容という仕事だったのですが、結局のところ、夫の誠と娘のキリを残して雨宮という男のもとに行ってしまった後も、巻子は誠の庇護から抜け切れていなかったわけです。つまり、「あれも、これも」欲しい女性だったという。一方の誠自身も、そんな彼女を庇護する必要があると感じたからこそ、巻子のことをずっと気にかけていたのだと思います。
─雨宮も不思議な男でしたね。
雨宮のような敵役的なキャラクターは、僕の作品には毎回登場します。彼の場合は、他の人々がみんなキリの協力者であるというなかにあって唯一、自分の理想を追い求めているという人物です。同じ中年男性同士ということもあり(笑)、僕にとっては一番リアルなキャラクターで、彼にもっとも感情移入しました。最後にキリと雨宮が相対する場面では、キリの視点を忘れ、完全に雨宮視点だけで書いてしまって……担当編集者に鋭く指摘され(笑)、書き直したほどでした。
─キリのモチベーションは当初、自分を捨てた母と自分から母を奪った雨宮への復讐心でしたが、さまざまな人たちと交流することで変化していきます。そんなキリについて、上野さんはどのようにお感じになられますか?
キリは、復讐のために何かを為すということではなくて、自分が他人になにかを与えられるようになることで、別の景色が見えてくるわけです。はじめは彼女も母親同様に感情的に欠落している部分がありましたが、理容師としての仕事をとおして喜怒哀楽が揃っていき、成長していった。だから、みんなが応援してくれたのでしょう。
─最後の場面でキリが構想したような理容店ができたらぜひ行ってみたいなと思いました。
僕はずっと自宅の近所にある昔ながらの理容室で髪を切ってもらっていますけど、そういう素敵なお店ができたら行きたいですね(笑)。いま通っているところは、別に落ち着けるわけでもないし、その理容師のことを特別好きなわけでもないのに……なにかもうズブズブの関係で(笑)。昨日なんて、ジェルをつけたまま行ったのに、洗いもしないでそのまま切りはじめて(笑)。自分でもどうしてそこに通い続けているのかわかりません。だけど、人生にはそういう不可解なところがあってもいいのかなって。エンタメ小説の場合は、書いたことすべてについて、どうしてそう書いたのか理由を答えられなければいけないですが、自分の人生のなかには、説明できないことがあってもいいのではないかなと思っています。
─面白いですね。さて、話題が変わりますが、私たちブックショートは、「おとぎ話や昔話、民話、小説などをもとに創作したショートストーリー」を公募する企画です。特定の先行作品をもとに新しい作品を書くことについて、お考えがあれば教えてください。
僕は昨年、『探偵太宰治』(文芸社文庫NEO)という小説を書きました。タイトルからもわかる通り、太宰治の人生を二次創作したような作品です。これを書くときに僕がやったことと言えば、太宰の文献を丹念に読み込むことでした。二次創作だからこそ、本家を徹底的に取材して、真実の部分はすべて回収できるものを書くべきだと考えたからです。だから、『探偵太宰治』には、太宰の作品に登場するキャラクターと同じ名前・設定の人物が登場します。また、津軽弁も青森県庁に協力を仰ぎ実際に津軽の方に翻訳していただきました。ただ、これについては、先ほどお話しした取材原稿と小説の違いと同じで、正確なものではありません。つまり、すべてを忠実に津軽弁で書くと、ほとんどの読者は理解できないので、津軽弁を示唆できるような形にしたということです。
─それでは最後に、小説家を志している方にメッセージいただけますでしょうか。
僕は2001年から2011年までの10年間、小説を書いていませんでした。それ以前に4冊出していたのですが、迷いが生じてしまって……いま迷いが無いかというとそうでもないんですけど、とにかくそのときは、小説をどういう風に書いていいのかわからなくなってしまった。それでその期間は、自費出版の会社で、本を出したいアマチュアの方々にアドバイスしたり原稿の添削をしたりする仕事をしていたんです。そのとき出会った方々にいろいろなお話を伺うなかで、僕は、みなさんが自分の本業の仕事の話になると一様に誇らしそうに語ることに気づき、興味を持ちました。そこで、もしかしたら自分は「仕事」をテーマに小説を書けばいいのかもしれない、と思ったわけです。けれども当時は、ほぼ会社員に近い働き方だったので安定した収入もありましたし、その仕事自体も面白かったので、一生こういう暮らしでもいいかなと考えていました。
─ええ。
転機は49歳のときに訪れます。自費出版のビジネスが急速に斜陽化して、このままだと厳しいかもしれないと感じるようになったんです。ただ、転職しようにも、もう50歳目前ですから……そこで僕が思い至ったのは、いまから面接を受けて企業に採用してもらうことと、小説を書いて暮らしていくことの可能性がだいたい同じくらいかな、ということでした。それだったらと、50歳でその会社を離れ、資本のかからないベンチャービジネスとして本腰を入れてエンタメ小説を書いていこうと決意します。そのときに、仕事をテーマにしようと思ったんです。
ただ、やっぱり生活できないと厳しいので、小説家になりたい方はそういうことも含めて考える必要はあるのだと思います。僕の場合、10年も小説を書いていなかったので、出版社に原稿を持っていってもすぐには難しかったのですけど、ありがたいことに、引き続き元の会社から仕事を受けることができたので、数年スパンで計画を立て、何とか収入を得ながら小説を書いていくことができました。あとは、それ以外のことだとやはり、いろいろな経験を積むことも必要だと思います。
─『キリの理容室』にも、上野さんのさまざまな経験やお会いした方々のお話が活かされていましたもんね。
やっぱり自分の人生が無駄だったとは思いたくないでしょう。僕は、自分のやってきたことすべてに意味があったと考えるために小説を書いているのかもしれません(笑)。そうすることで、いろいろな回り道も無駄ではなかった、小説を書くための糧だったんだと正当化できますから(笑)。
─ありがとうございました。
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