滝口悠生(たきぐち・ゆうしょう)
1982年東京都生まれ。埼玉県育ち。2011年「楽器」で第43回新潮新人賞受賞。14年『寝相』で第36回野間文芸新人賞候補。15年『愛と人生』で第28回三島由紀夫賞候補、第37回野間文芸新人賞受賞。同年「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」で第153回芥川賞候補に。2016年「死んでいない者」で第154回芥川賞受賞。
『死んでいない者』滝口悠生(文藝春秋 2016年1月28日)
秋のある日、大往生を遂げた男の通夜に親類たちが集った。子ども、孫、ひ孫たち30人あまり。一人ひとりが死に思いをめぐらせ、互いを思い、家族の記憶が広がってゆく。生の断片が重なり合って永遠の時間がたちがある奇跡の一夜。第154回芥川賞受賞作。
─『死んでいない者』とても楽しく拝読させていただきました。まずは、両義性を持つタイトルについてお伺いできればと思います。
この作品自体が、生者と死者の起こりえない通信のようなものを描いている部分もあるので、「もう死んでしまっていない(死者)」と「まだ死んでいない(生者)」という両義性はあります。ただ、そのうえでこのタイトルは、「死んではいない」という死を否定する意味が一番強いです。それは、「まだ死んでいない」というよりも、もう死んでいるんだけど、その人がまだ死という状態に完全に埋め尽くされている存在ではなくて、どこかまだ生きているように考えてしまったり思えてしまうという感覚です。登場人物ごとにそのニュアンスが異なるところはありますが、全体としてこの作品には、そうやって生きている人たちが死んでしまった人の死をどこか否定したい、否定してしまうというムードが漂っています。
─たしかにそうですね。
そもそも僕は、登場人物たち、あるいは読者が、死んだ誰かのことを考えるとき、その死という状態は、実はそんなに安定しているものではないと思っています。なぜなら、生きている人には死という状態がわからないから。死者であるということは、実はどんな容態をも説明していない。そういう不確かな死という状態を、生きている人の言葉の体系を使って言い表すためには、言葉の方を歪ませないと難しい。だから、誰かに思われているときの死者というのは、「死んでいない者」という言葉で表現しうると思うんです。
─死について言うと、祖父の「ずっと、いつかばあさんが死ぬことを悲しみ続けて生きてきた気がする。」という言葉が印象的でした。
ずっと長く一緒に生活している夫婦やパートナーというのは、当然のように「この人はあと何十年後に死ぬかも」とか「この人がもし死んだら自分は残されるな」と考えると思うんですよね。生きて一緒にいると、そういう時間が少しずつだけど、確実にある。それは、取るに足らない時間のようだけど、確かなものとして蓄積されています。だから、現実にその人が亡くなったときの悲しみというのは、亡くなった瞬間にいきなり起こるわけではなくて、きっとその人が生きていた頃、一緒に過ごしていた時間から存在していたんだろうなと思うんです。
─「移人称」とも呼ばれる滝口さんの小説の視点はとてもユニークです。文芸誌「文學界」(文藝春秋)のインタビューでは、“視点を動かすだけでなく、そこに人の意識が絡んでくるからおかしなことになる。たとえば、いないはずのところに人がいたり、人のことを観察しているうちにその人の声が自分のものと重なって自分がその人の一人称で語りだすみたいなことも起こる。”と語っておられました。人称と視点について詳しくお伺いできますでしょうか。
まず、人称というのは、書き手がオプションのように「今回はこうしよう」と選択するものではなく、先に書くこと、書かれたものがあって、後から分析されるものだと思います。同様に、視点も事後的に抽出されるものです。
先に視点についてお話しすると、小説の視点はカメラと同じようなものとして扱われますが、実は、映画のカメラとは違うはずです。なぜなら小説の視点は、言葉の中でのものだから。たとえば、ある語り手Aさんに語られていることの中には、Aさんが見ている景色やもの、人物という対象が存在し、その対象に向けられているものが、その文章の語り手の視点というものになります。ところが、語り手AさんがBさんという人物に視点を合わせて、Bさんのことを描写して語っていくと、自ずとBさんの視点、視界というものが、Aさんの想像力のなかに入ってくるはずだと思うんです。
─語られる対象であるBさんの視点が、語り手Aさんのなかに入ってくる。
映画のカメラの場合には、それを描くためにはBさんの視界にパッと切り替わらなければ不可能です。でも、言葉であれば、Aさんの視点からBさんを書くうちに、Bさんの意識や視界の情報をシームレスに描きうる。むしろ、カメラの切り替えのようにしてしまうと、わざわざ切り替え点を設けるような書き方にしないといけないので言葉の流れとしては不自然になる気がします。つまり、語り手がいて対象があると、その語りの中の視点というものは、対象の数だけ増えていって、自由な行き来も可能になるということです。語り手の視点というものは、原理的には確固としたものではないと僕は考えています。
─なるほど。
人称も同様で、語り手Aさんが対象Bさんの視界にあるものを語るとき、その人称はAさんからBさんに移行しているとも言えるわけですよね。それは、すぐにAさんの人称に戻りうるし、そのままずっとBさんのままということあれば、さらにまた別のCさんに移ることだって可能です。たとえば、あるとき死んだ父親のことを思い出したとして、そこから父親の父親である祖父のことを思い出して、さらに、その父親の兄弟や知り合いのことを思い出して、と人を辿って思考が移っていくのと同様に、語りの人称も移動していくものだという認識を持っています。
ただ、もちろん思うことと書くことの違いは厳然とあるはずなので、書くという作業の中で、思考のとりとめのなさやとめどなさみたいなものをどう整理つけるか、あるいは整理をつけないならつけないで、どういう書き方をするかという問題はまた別のことだと思います。
─滝口さんの作品の魅力には、そういった思考のとりとめなさとともに、記憶の曖昧さが描かれているところがあるように感じます。
書く作業は、実況中継のようにはできないものだと思うので、対象の見え方とその書き方の間には語り手の記憶が挟まります。つまり、書くという以上は、何らかの記憶を一回経ていると思うんです。その記憶について考えると、何かを思い出すという時、当然、過去の全てを覚えていることは不可能だから、僕らは色々なものを落としていますよね。でも、その不完全さにもかかわらず人間は、自分が思い出したことがまるですべてかのように考えてしまったり、あるいは自分が覚えていることだけを思い出すだけで満足してしまう傾向があります。当たり前のことですが、自分の記憶から抜け落ちていることを考えることはできません。だから、その対象について全てを考えることはできない。といって、全部を覚えていることもやっぱり不可能。そういうジレンマは、きっと書くことや語ることにも同じことが言えますよね。
─『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』(新潮社 2015年)には、「思い出せば思い出すほど、記憶は、固く小さくなっていく」という言葉もありましたね。
回想を繰り返せば繰り返すほど、思い出せる部分の輪郭線だけがどんどん強調されていって、その分、他の要素はどんどん後景化してしまいます。パソコンで画面のコントラストをどんどん上げていくと、最後は白と黒だけになってしまうようなものですね。
─『死んでいない者』には30人ほどの人物が登場するなか、それぞれのキャラクターの細部の描写がとても素敵だと思いました。(特に銭湯のシーンが好きでした。)執筆時には、家系図を書いていたと伺いましたが、それぞれの性格や特徴はどのように決まっていったのでしょう。
書きながらですね。あれだけの人数が出ているので、全員が同じような感じだと自分でもわからなくなってしまうというか、辛くなってくるので、それぞれの際が立ってくるように書き分けていきました。家系図はあくまでメモというか校正用につくっただけで、先に系図をつくってから書いたのではありません。
─登場人物の一人、不登校になりながらも、その内面が周りからはよくわからないという美之について、美之の母が、「息子は何になってしまったんだろう」と悩む場面が印象的でした。
不登校になった段階で美之の内面に入るような書き方をすれば、その理由を書くことにはなったんだと思います。でも僕は、そういうことはしなかった。そこには何の意図もありません。書いていたら結果として、親やその周囲の視点から彼を見るという距離感になった。ただ、書き手としては、彼の不登校の理由や内面を書かなくていいのかという葛藤はあったわけです。だけど、あえてそこに踏み込むことをしなかった。それは僕が、彼の不登校の理由を書くことと、その理由が明らかにならないままの状態を書くことは等価だと考えているからです。だから、ともすれば小説の題材になるような学校に行かなくなった少年の内面は書かず、行動原理がよくわからないままなぜか不登校になって、その後もなぜか仕事をせずなんとなくのらくらしているという彼の状態をそのまま書きました。僕自身、書いていて非常に不安ではあったんですけど、その理由に踏み込んでしまうことの安易や楽さの方を恐れて、わからないままにしておいたんです。
─安易や楽さを恐れて。
先ほどの記憶の話と同じで、何かの理由というのは全てをいい明かすものではありませんよね。たとえば、現実の世界で子どもが不登校になった原因として、嫌な人がいるとか、嫌なことがあったという理由は挙げられるかもしれない。だけど、それが全てではない場合もあると思うんですよ。でも、「これ」という理由を書いてしまうことで、周りだけではなくその人自身のなかでもそれ以外のものが後景化してしまう。自分はこういう理由で学校に行かなくなったという声明を出すことによって、それ以外の理由が消えてしまうと思うんです。
─明確な理由を書かないことで、小説が現実に近づくということでしょうか。
ある意味では近づくと思うし、ややこしい言い方になりますけど、書かないことで現実に近い状態から遠ざからない。現実というのは、近ければ近いほど、複雑で混沌としていてなんだかわからないものだと思います。そこから少し離れて整理することで、捉えることはできる。だけど今回は、書き方として、近すぎてわからないという状態にしておきたかった。そこに留まったからといって、何かがわかるとか、わかりやすくなるわけではないけれど、俯瞰して整理してしまうことで、失われるものがあると思ったので。
─滝口さんの作品にとって、音楽や音は非常に重要な要素だと思います。実際に滝口さんが執筆されるときには、音楽を聴いているのでしょうか。
家で書くときは基本的に流さないですね。ただ、窓を開けて、外の音は入れるようにしています。そういう音は聴こえないよりも聴こえていた方が自分にとって好ましいです。
─実際に書く音や音楽は頭の中で聴こえていますか。
場合による気もするんですけど、基本的には鳴っていることの方が多いような気がします。
─滝口さんの作品は、風景の描写もとても魅力的です。そういったビジュアルは頭のなかで見えているのでしょうか。
小説を書き始めるときや書き始めのあたりで、景色や風景といったイメージ画像のようなものが頭の中にあることが多いですね。すごく曖昧なんですけど、『死んでいない者』であれば、夜の田舎の風景だったり、『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』なら、田んぼのなかの景色というような。そういうビジュアルが、書いている時の拠り所になっていて、作品自体もそのイメージから大きくは離れない。そこに立ち戻っていくような感じで書いているような気がしますね。
─執筆中に書いている場面が頭の中で映像として動いているということはありますか。
そういう感覚はあまりないかもしれないです。込み入った空間や動きの描写をするとき、必要に駆られて映像をイメージすることはありますけど、書く作業において絶対に必要なものというわけではないですね。どちらかというと、映像的なものより言葉の方が強い。文字を追っているような感じで書いています。
─話題が変わりますが、私たちブックショートは、「おとぎ話や昔話、民話、小説などをもとに創作したショートストーリー」を公募する企画です。滝口さんは、芥川賞受賞会見で“小説に限らず、何かを作ろうとすると、過去の作品にたどっていくことはごく普通、自然なこと。そういうものに感化され、影響を受けて作品の中に取り入れられていると思う。”と語っておられましたし、実際、映画「男はつらいよ」をモチーフにした『愛と人生』(講談社 2015年)を書かれています。先行作品をもとに新しい作品を作ることについてのお考えを教えてください。
広い意味で言えば、先行作品から何の影響を受けずに小説を書くことはできないわけですし、具体的なモチーフがある場合には、また違う意味になると思います。でも、小説が作品として自立するかどうかは、題材によって変わることではありません。僕は、小説というものは、自分が書こうとしているものと、実際に書きつつあるものの応酬のなかで作られていくものだと考えています。だから、先行する作品があって、それを解体したり組み直したりして書く作業というのは、完全なフィクションを書くときに、自分の中にある何かしらの想像や考えを組み上げていく作業と本質的には同じことだと思います。ただ、二次創作においては、先行作品が動かしがたいものとして存在します。そうすると、今書いていることがそれに拘束されてしまうことはあるでしょう。だから、先行作品とどう付き合うかを考える必要がある。その拘束から逃れる手立てを考えるのも一つだし、拘束されたうえで、どういうことができるか考えるというやり方もあるでしょうし。
─なるほど。
もう少し実践的な話をすると、僕は、元の作品と違えば違うほど二次創作は面白いのかなと思います。すでに自立している先行作品を立たないくらいに崩して、でも作品として奇跡的に立ったみたいな状態のものが。『愛と人生』を書いたときは、オマージュしながらもどれだけ「男はつらいよ」から離れられるか、二次創作のギリギリの際まで迫れるかを考えました。だから、『愛と人生』は、自分の作品の中でもちょっと種類が違うし、書き方もやっぱり違いました。他の作品に関しては、自分が書こうとしているものを最初から自分で作って、そのうえでそことやりとりをしながら書いていけばいいので、助走がついているという感じでしたが、『愛と人生』の場合は、書き出す溜めが全くなくて、助走がないところからやっているから、書いているときの労力、コストがすごかった。それに、二次創作の場合は、書く側が必死に動かなければ話がどんどん元ネタに引っ張られていってしまう。だから、そこから遠ざかるための助走も自分で稼がなければいけない。そういう難しさはあると思う。でも、映画をそのまま小説に移してもしょうがないように、昔話をそのまま小説風にしたってしょうがない。小説として自立するための足は自分で用意しなければいけないんだから、いっそ遠くまで行った方がいいのではないかなと思います。
─ありがとうございました。
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