松波太郎
一九八二年、埼玉県生まれ。一橋大学大学院言語社会研究科修士課程修了。二〇〇八年、「廃車」で文學界新人賞を受賞。一四年、『LIFE』で第36回野間文芸新人賞を受賞。〇九年「よもぎ学園高等学校蹴球部」、一四年、「LIFE」、一六年「ホモサピエンスの瞬間」で芥川賞候補となる。
『月刊「小説」』松波太郎(河出書房新社 2016年7月14日)
死にかけた「小説」を、この男が救うのか――? 売れない作家が立ち上げた文芸誌の行方は……表題作他3編を収録。類まれなユーモア、身体性、言語感覚を併せ持つ不世出の奇才による傑作選。
─新刊『月刊「小説」』楽しく拝読させていただきました。「文芸誌」として書かれた表題作は、どのような着想から生まれたのでしょうか。
着想は、特に無いといえば無いんです。現在の文壇、文学状況、文芸誌状況なりに対するカウンターみたいな意識が根っこにあったのかなと自分でも思って、読み返してみたんですが、しっくりこない。僕自身も不満が特に思いつかない。思いつこうとしている時点で不満は特にないんだと思うんです。毎月の文芸誌も読者として楽しく読んでしまっていますし、業界としての小説が落ち目だと言われることはありますけれど、逆にいろいろとやりようのある状況になってきているような気がしています。だから、僕は文芸誌を敵対視したり批判したりする意図でこの作品を書いたわけではなく、むしろ、現状批判だと読む人の方が、今の文学を変えて欲しいと期待していたり、敏感になっていたりするような気がしていて、興味深く感じています。
─なるほど。
そもそも僕自身は、良いか悪いかは別として、小説というものを広く捉えすぎているきらいがあるんです。自分は「松波太郎」という名義で作品を出しているわけですけど、自分一人で作っているという感覚はもともと少ない。大前提として、編集者にコメントをもらって作品を良くするということはあるうえで、それ以前に、「この編集者が最初に読むんだ」というイメージだけで作品というのはもう作られていくわけです。「松波太郎」という名前はあくまでグループ名として捉えていて、もちろん自分が中心メンバーとして書かされているけど、編集者も合わせてだいたい3、4人で作ってきたというのが正直な感覚なんですね。
─「松波太郎」というグループで作品を作ってきた。
そういう風に考えていくと、文芸誌という形で色々な作家名が載っている雑誌ではあっても、ある意味では、雑誌全体で一つの小説だと捉えることもできるのではないかと思うんです。みんなで文芸誌という一つの小説を作っているという風に。そして、そうであれば逆に、雑誌のような体裁の作品を書いてもいいのではないかと。それで今回、河出書房新社の松尾さんから原稿の依頼をいただいたときに、その構想をふと思い出して、伝えて、一緒に作ることになりました。やっぱり今回、松尾さんの存在は大きかったですよ。松尾さんとの関係のなかで、月刊「小説」という作品が引っ張り出された感じですね。
─雑誌全体を一つの小説と捉えるのは面白い考え方ですね。
それで、そもそも、どうして僕が小説をそういう風に広く捉えすぎているのかというところまで、自分でも不思議に思って、掘り下げてみると、三重県の熊野地方で暮らした経験が影響しているような気がします。中学三年生からの4年間だけですが、本当にど田舎で。僕が通った中学校は、全校生徒が14人、そのうちの2人が松波兄妹という(笑)。転校前の1クラス40人で9クラスあるような学校とは全く違いました。前の学校では、同じ匂いのする人同士や同じ部活同士という軸があってグループができていましたが、全校生徒14人というなかでは、趣味とかも全部バラバラ。1クラス40人編成だったら絶対に関わらないだろうという人たちばかりだったんです。
─転校で環境が大きく変わった。
学年を飛び越えて一緒にやる体育の授業で、転校初日に二つ年下の子から、「太郎ちゃん、ヘイ、パス!」っていきなり呼ばれたりして。もちろんパスは出しませんでしたけど(笑)、でも、それがどんどん溶けていったんですね。前の学校では、同じ匂いのする者同士でいることの楽さもあったんですけど、一方で、そうやって軸がしっかりしているがゆえに、常にグループで一緒の行動や考え方をすることが気詰まりだった部分もあって。新しい学校では、反対意見も賛成意見も全く無くて、そういう会話自体が成り立たない。そもそも何を言っているのかよく理解できないというか。でも、その状態自体がすごく面白かったんです。それがすぐ小説の話には繋がらないかもしれないけど、そういう感覚は今でもずっと持っているんですね。
─面白いですね。生徒がジャンル分けされていない状態というか。
そういう意味では、本当に誇張なく言っていいと思うんですけど、僕は小説を、中三の時の自分に向けて書いているのかもしれないし、僕以外の同級生13人に向けて書いているのかもしれないし、あるいは、自分も含めた14人の当時の状態をそのまま書こうとしているのかもしれないですね。
三重とも和歌山とも奈良ともつかない3県にまたがって存在している熊野の生活の中で、もう一つ印象的だったのは、僕の家から自転車でひとつ山を下った場所にあった小さな本屋です。そこは、都会の本屋とは違って、ミステリー、純文学、エンタメといったジャンル分けが全然されていませんでした。とりあえず、地元の作家ということで、中上健次と佐藤春夫と南方熊楠の本が一番見やすいところにポンと置いてあって。僕は、浅田次郎や西村京太郎、海外の小説、新書などと一緒に楽しく読んでいたんですね。そういう経験も、小説をわざわざジャンルで区切る意味はないのではないかという考えに繋がっていったような気がします。中三の時の状態が、小説家になった今もずっと続いているのかもしれません。
─月刊「小説」には、“中国由来の小説”と“西洋からきたnovel”という言葉の対比が出てきました。前作『ホモサピエンスの瞬間』にも、東洋医学と西洋医学という対比がありましたね。
そうですね。どちらも言葉としては東洋、西洋で区別されてはいるんですけど、状況を見ていったら“vs”ではないんですよね。東洋医学は、もともと人の体に触れて、その反応を見極めて出来上がった体系のようなものですけど、西洋医学だって、いきなりメスで切るところから始まったのでは無く、同じようにまずは触ることから入っていたはずです。日本では、伝わった順番に名前が付けられているので“vs”で捉えられがちですけど、決して対立関係ではないと思うんです。時系列に近いと思います。
小説もそういう意味では一緒です。もともと日本にあった小説と、西洋から入ってきたnovelが入れ替わるという発想はそもそも小説にはないはず。入れ替わるという程のものでもないんだと思います、そもそもの「小説」は。入れ替わるということ自体が、今回出てきた「大説」という考え方だと個人的に思っています。だから、novelはここまでの意味で、小説はここまでの意味で、大説がここまでの意味という分け方をするのではなく、もともとあった小説が、外来種として入ってきたnovelを柔軟に取り込んだと捉える方がいいと思う。今回、そういうことを追求していったら、月刊「小説」になったような気がしています。
─作品と作中作の境界が曖昧になっていくようなメタ構造は最初から決まっていたのでしょうか。また、写真や歌詞が入っていたことについてもお伺いできればと思います。
作品を書き始めたら、僕はじっと座って手を動かすだけの肉体労働者だと思っているので、意図して「こういうプロットで」とは考えなかったですね。これまでの経験上も、自分があまり介入しすぎると作品はよくならない。僕にとって作品は、自分の中にありながら別の生命体であるという子供のような感覚に近い気がします。人間に心臓のリズムがあるように、作品にもそれぞれの脈動があるわけです。そういう僕とは違う一つ一つの作品のリズムにきちんと耳を傾けて、体を触ったりしていると、その作品のためにやらなければならない手法がおのずと見えてきます。それに忠実に書かないことは、何かを置いてけぼりにしているような、真実でないような気がするんです。だから、一つ一つの作品は自分の名義で出していても、作品ごとにトーンや手法は毎回変わる。時々写真も出てくるかもしれないし、歌も出てくるかもしれない。僕はそれを統御しようとは思いません。
─広告が入っていたのも面白かったです。
それも本当に作品の要請です。たとえば、光る指輪の広告が出てくるシーンは、作者と編集者という狭いやりとりの場面ですよね。ネタとしては話に合っているんですけど、その狭いやりとり自体を書くということは、この作品のトーンには合っていない。どこか通気性をよくしないとこの作品の流れとして違うなと感じたんだと思います。だから、読者を置いてけぼりにした作家と編集者のやりとりだけを書きながらも、その反動として広告がそこに入る。両極端が必要とされるシーンだからしっくりきたんだと思います。
─カギカッコの文と地の文を往復する文体はどのように生まれたのでしょうか。
僕は、小説を書いているときの気持ち良さと、読んでいる人の気持ち良さを大切にした方がいいと考えているんです。その気持ち良さがどこからくるかというと、一つは、呼吸のリズムだと思っています。それで、呼吸のリズムは個々人で違うけど、それを生み出す心臓の収縮と拡張があることはみんな共通しているわけですよね。ポップソングをいくら嫌う人でも生得的にポップなリズムを体内に宿してしまっている。このリズムを文章レベルで表現しようとしたときに、カギカッコの文と地の文という関係が、ドックンドックンの状態でずっと続いて、ときどき地の文や会話文の塊が、ドッックンドッックンとゆっくり脈打つときもある。それに書く方と読む方がシンクロするとき、こういう文体になったような感じがあります。
─面白いですね。
僕は、内容や意味を書くことだけが文学なり小説だったとしたら、今、衰退しているとは言われていますけど、そもそもこんな風に何千年も続いてこなかったと思うんです。やっぱり、みんなで読んで書く、書いて読むという身体的な悦楽があったからこそずっと続いてきた、このメディアは捨てられないで残ってきた。だから、小説の内容で、「この部分はちょっと松波と考え方が合わないな」ということはあるかもしれないですけど、読んでいて止まってしまうとか、呼吸がしづらいとは感じさせたくない。リズムだけでも読ませたいなとは思っていますね。
─今回の主人公は作者である松波さんと同姓同名の「松波太郎」でした。ご自身と登場人物の関係性について教えてください。
自分としては基本的には違う人物だと思っていますが、これも面白い現象だと感じています。広い話になりますけど、日本語には一人称がたくさんありますよね。僕、私、あたし、あたい、オレ、わい、わし……。他の言語と比べて「私」が細分化されているし、一人称を使わない日本語の文章を書こうとしても、どうしても収まりが悪くなってしまう。使わないことで「私」の自我も生まれてしまう。「彼」・「彼女」も日本語にはかえってよそよそしすぎる。「私」が絡みついてしまっている時点で、読み手は、作者と登場人物を同一化してしまうことにもなっていると思うんです。もともとの日本語の文章自体が、「私」という言葉をパブリックなものではなくて、プライバシー化してしまうから。しかも、情報として「私」が作者と似ているということになればなおさらです。自分では距離をとって書いているつもりであっても、「松波、こうだよね」って。僕は、その状態自体が面白いなと思っているんです。
─今回の主人公は、松波さんご自身と情報が重なる部分がかなりありましたよね。
僕自身と作中の松波太郎の明確な違いは、作中の松波太郎が身体のコンディションを崩していることですね。僕はやっぱり、小説を書き続けるという行為は、単純な筋肉運動とはもちろん違うけれど、肉体労働だという実感が大きい。だから、もし肉体の健康状態が保てなくなったとしたら、作品を書き続けることができなくなってしまうのではないかという怖さを常に抱えているんです。僕自身は食事にもすこし気をつけたり、適度に運動したり、鍼灸マッサージの免許を取って自分で治療したりもしているんですけど、今回の作品では、身体のコンディションが保てなくなったときの自分を空想して書いたような気がします。
─身体のコンディションを崩した松波さん。
身体のコンディションが崩れると、自分の身体の内側と外側が保てなくなるんです。つまり、外側の状況に全部持っていかれるようになる。一番身近なところでいうと「時間」ですね。僕としても、外から要求される時間、つまり、締め切りをできるだけ守りたいとは思うんですけど、作品を一番いい状態で生み出してあげるためには、もっと時間が必要なこともある。時間という単位には還元されないものが作品に流れていることもある。そういうときに、作品をしっかりガードしてあげるためには、体力が必要なんですよ。でも、身体の状態が悪くなると、外の時間がどんどん入ってきて、全部、それに合わせて作らなければいけなくなってしまう。さらに、売り上げとか賞とか時間以外の外部の要求も入ってくる。そういうことを考えて書かないといけない状況になると、作品のことがどうでもよくなってしまうんです。僕は、その状態になったら、小説家として終わりだなと思っていて。今回の「松波太郎」という登場人物は、まさに外部が入り込んでしまった状態ですね。
─外部に翻弄されていましたね。
健康状態を害して、外部からのクレームに右往左往するという。それで、手紙を書いてくれたファンに自分の今後を賭けて会いに行ってしまう。普通の作家ならありえないですよ。ある意味で作家の末路と言える。書けなくなって、最後は本当にもう言葉も保てなくなってしまって。
クライマックスの場面は、初めからああ書こうと決めていたわけでは無いですが、ファンを追いかけていった最後のところで何かあるんだろうなとは思っていました。あの状態のまま行ったら、最後は死ぬか、ある一線を越えてしまうしかないだろうなと。もしかしたら松波は、幻覚の見える状態まで行ってしまったのかもしれない。そういう意味では、あの情景は書いていてあまり楽しくはなかったですけど、僕には彼の行き着く果てを書く責任があったんです。
─月刊「小説」以外の3作品、「関誠」「アーノルド」「五臓文体論」もとても面白かったです。
結果としては、月刊「小説」のなかに、「柳香」という人名ものの作品が入って、「関誠」「アーノルド」とつながりがありますし、最後、「五臓文体論」で締めるのも収まりがよかったと思います。元々あった今村哲さんの絵を使わせてもらった本の表紙は、月刊「小説」の最後のシーンそのままな感じかもしれませんけれど、その中に、関誠がいても、アーノルドがいてもいいような形で書けましたし。すごく満足している一冊ですね。
─話題が変わりますが、私たちブックショートは、「おとぎ話や昔話、民話、小説などをもとに創作したショートストーリー」を公募する企画です。松波さんの作品には、“徐福伝説”を題材にした「西暦二〇一一」がありますが、先行作品をもとに新しい作品を作ることについてのお考えがあれば教えてください。
僕はそもそも、題材としてみたときの伝説には全く興味がないんです。徐福伝説についても、徐福が実在したかどうかなんてことは、どうでもいい。気になるのは、紀元前3世紀の人が語り継がれている理由の方なんです。他にも色々と語ることはあっただろうし、語るのが嫌いな人もいたなかで、どうして徐福は語られ続けてきたのか。それぞれの時代で熱意をもって語り続けてきた人への関心が、僕の書くモチベーションになっています。
だから、過去の作品を題材にして書こうとするのなら、それを語ってきた人の心の部分を想像することが大切だと思います。それがなければ、いくら書いても単なる知識や雑学で終わってしまう。死んでしまった人たちの心の部分を想像することにこそ、技量をこえた何かが、「小説」が脈々と語り継がれて21世紀まで残ってきた何かがあるような気がなんとなくしています。
─最後に、小説家を志している方にメッセージいただけますでしょうか。
僕だけではなく、小説家の知り合いを見ていても、やっぱり、身体のコンディション作りが大事だと思いますね。一作品を書くのも体力的に大変ですけど、今後何作品も書こうと思う人だったら特に、今のうちに自分のコンディションを保つための方法を持っていた方がいい。散歩でも、ジョギングでも、ストレッチでも、ヨガでも、サウナでも、漢方でも。小説家には、学生時代、体育や部活が嫌いだったという人がけっこういますけど、身体の話をすると結構食いついてくるし、目から鱗みたいな話を聞かせてくれる人も多いんですよね。やっぱり、身体は大切なものだと捉えて、運動とかをすごく有効に取り入れている。そういう人はずっと書き続けることができるんじゃないかなと思います。
─身体を保つ方法を持つことが大切。
もちろん、常に健康であればいいというわけでもないと思うんですよ。「あぁ、今日も太陽が気持ちいいッス」みたいな文章を読みたい人はそういないと思うので(笑)、うつ的なものもそれなりに体の中に蓄えておく必要もあるかと思います。ただ、本当のひどいうつ的な状況では書くことができない。そこまで落とさない、いいうつ状態を保つような方法を持っておくということが大事だし、あるいは、それが全てなのかもしれません。そうでないと、月刊「小説」のなかの松波みたいになってしまいますから。
─ありがとうございました。
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