木下古栗(KINOSHITA FURUKURI)
一九八一年生まれ。
二〇〇六年に「無限のしもべ」で第四九回群像新人文学賞を受賞。
著書に『ポジティヴシンキングの末裔』(早川書房)など。
『グローバライズ』木下古栗(河出書房新社 2016年3月24日)
古栗フリーク続出! これ以上ない端正な日本語と繊細な描写、文学的技巧を尽くして、もはや崇高な程の下ネタや不条理な暴力、圧倒的無意味を描く孤高の天才作家、初の短篇集。
─新刊『グローバライズ』とても楽しく拝読させていただきました。また、文芸誌「文藝」(河出書房新社)2016夏号に掲載された『グローバライズ』の[創作論]もとても面白かったです。まずはこの短編集がどのように生まれたのかをお伺いできますでしょうか。
もともとは一昨年、「文藝」の「十年後のこと」という企画で原稿用紙5枚の掌編小説を依頼されたことがきっかけです。そしてその後に、同じような感じで掌編小説集を一冊書いてみませんかとご提案いただきました。一編の枚数に関して事前に厳密な制限は取り決められていなかったのですが、しかしいざ書こうとしてみると、これは掌編では枚数が足りない、むしろ短編の長さになるなとすぐ感じました。そこで担当編集者に相談したところ、それでもいいですよと軽やかに即答くださったのです。
─どうして掌編だと枚数が足りなかったんですか。
その頃、次第にひとつの書き方を追求したくなってきていました。それは簡単に言えば「誰々は何々した」「涼しい風が吹いていた」など、登場人物たちの行動や彼らの知覚する周辺環境だけをリアルタイムに描写する書き方です。これは地の文において、例えば誰かの属性や性格を説明したり、その心理を直接書いたりといったことを一切しないので、そういった文章は省かれるわけですが、一方でそれらを登場人物たちの表情や身振り、会話だけで表さなければならなくなる。なのでいくら短くしようとしても、5枚程度ではほとんど何も書けなくなってしまうのです。ちょっと登場人物同士を会話させただけで、あっという間に数枚が過ぎてしまいますから。
─[創作論]では、“「語り」を排除した「描写」のみの文章を用いる”と表現されていましたね。なぜそのような手法で書こうとされたんですか。
『グローバライズ』では、『ポジティヴシンキングの末裔』(早川書房 2009年)で試みたことの、言わば正反対を追求している感覚でした。『ポジティヴシンキングの末裔』では、およそ普通の人からすると感情的にも理性的にも理解しがたい心理をもつ人物を描いたり、まったく不要な情報を唐突に提示したり、文章の面でも、いたずらに過剰だったり拙劣だったりする言葉遣いを無駄に多用したりしました。それは例えるなら、インターネットのスパム、迷惑メールのようなものです。最低限のリテラシーがある人なら一読して一切信じないような文章。そういうものに興味を惹かれていて、実際、当時はそういう文章ばかり読んでいました。人間は小説を読みながら感情的に理解したり同調したり、提示される情報をそれなりに咀嚼していくことで、その語りについていったり、その世界に入り込んだりする。一般的にはそれが小説を読む愉しみなのかもしれませんが、それは書かれていることを少なくともある程度信じること、別の言い方をするなら、自分と共通の場に支えられることによってもたらされる体験です。つまりある意味では自分を感じているにすぎないとも言えるわけです。しかしそれとは真逆に、語られる心理や情報、そして語り口や言葉遣いの面でも、書かれていることを疑うどころではなく端からまったく信じられないような、スパムのような文章が面白いと感じていたのです。なぜなら、それをまったく信じられないということは、そこに自分にとってより遠い、相通じない「他人」がいるからです。「何を言ってるんだこいつは?」というような、強く「他人」を感じられる方が面白かったわけです。
─そうだったんですね。
一方で今回はその逆に振れて、つまり、余計な情報やありえない心理を提示したりする代わりに、それらをまったく省いて登場人物たちの行動の描写に徹すれば、それもまた深く入り込めない文章にできるのではないか、普通に文章を読み書きする感覚と距離が出てくるのではないかと考えたのです。
─たしかに距離を感じたような気がします。
もうひとつは書き言葉の変容の問題です。昔は小説の文章を含めた書き言葉はそれなりに読み手との距離があったと思います。しかし今はインターネットによって日常的に人が文章を読み書きする。特にSNSやスマートフォンの普及以後は話すように様々な文章を書き、話されるように様々な文章を読むという傾向がより強く、当たり前になった気がします。するとある意味で、書き言葉と話し言葉の中間のような文章が、書くにしても読むにしても、人が日常的に接するものの大勢を占めるようになってきたのではないか、そう感じるのです。何というか、今までの書き言葉が「書く話し言葉」とでもいうべき感覚に寄り、それと同時に、書かれた文章を読んでもそれが従来の書き言葉のような距離をもたらさなくなった——そうした目で見返すと、たとえば昔の小説の、現在から見たら硬い文章、難読の文章、卓越した名文などであっても、そういう時代にあったそういう文章で「話している」感じで読めてしまう。そんな感覚があって、自分で小説を書いていても他の人の小説を読んでいても、それもまたネットの文章などと同じく「話している」文章に感じられるというか、歴然とした書き言葉とは感じられなくなってしまった。昔、知らない本をパッと開いて読んだときに感じた「この文章は何か違う」という衝突、距離感があってほしい。だから何も語っていない、「話していない」文章を使いかった。そんなところもあります。
─そうした書き方を決めて、書く内容、場面はどのように決めていったのでしょうか。たとえば「苦情」では不動産屋が登場しますね。
『グローバライズ』というタイトルなので、書くうちに何となく、地球が12ヶ月で太陽の周りを一周するのに対応させて12編にしたいと思いました。ところが相応しい材料が慢性的に不足していて、非常に悩まされました。まず自分の内から呼び出せる経験や身近な関係で見知っていることはなるべく材料として使わずに、作中で登場人物が別の登場人物に遭遇するように、偶然どこかでぱっと目にした光景から発展させるとか、新しく外に材料を探したいと考えていました。しかしその材料になりうる実際の光景に出くわして面白そうだなと感じても、たとえばそこにいる何らかの職業の人たちの、詳細な仕事内容や交わされる専門的な会話などについては知識がなかったりするわけです。しかも今回の書き方では地の文で設定などを説明しないので、登場人物の行動だけで彼らがどういう人物なのかを示さなければならない。この説明なしの書き方では、主に会話文でどういう属性なのか、どういう状況なのかなどを提示するわけですが、仕事に関わる物事など、往々にして独自の呼称や略称があったりしますね。だから実際にどういう会話をするか、専門的なやり取りなども含めて知っておきたい。でもそれをよく知らないわけです。他には、あまりにマニアックな仕事内容だったりすると、場面をちょっと提示しただけでは何のことだか分からないといった問題もあります。こうしたハードルがあって、使いたくても使うに足りなかった断片も沢山ありながら、書けたものが残ったという感じです。「苦情」の不動産屋については、一般性のある分かりやすい職業だというのと、訪問する方は仕事の時間、訪問される居住者はプライベートの時間、こういう異なる立場の衝突がいいなと思った記憶があります。
─タイトルの話が出ましたが、『グローバライズ』という本のタイトルはどのように生まれたのでしょうか。
書き始めた時には何もなくて困ったのですが、書いていくうちに作中に大なり小なり海外との関係や、さらに外国人も出てきたりしたので、最後の一編の題を取って、各編が何となく連なるような感覚で「グローバライズ」にしました。「グローバル」とか「グローバル化」という言葉は薄っぺらく濫用されがちだと思うのですが、そういう軽い言葉としての感覚ですね。
─表題作の短編「Globarize」の綴りが、「l」ではなく「r」でした。
「r」にすると「rise」や「arise」、つまり「立ち上がる」「生じる」「昇る」といった感じがありますね。この短編は登場人物が立ち上がると同時に、それに対して地球が昇るようにして終わるので、そういう造語にしたというのがひとつ。もうひとつは特に日本人に対してだと思いますが、「l」と「r」の発音の区別がつかないことにかけて、出鱈目な英語を揶揄する「Engrish」という言葉が海外にあって、そういうニュアンスも頭に浮かびました。そういう、まがいものみたいな感じが小説を書いている時にあるわけです。正直に言えば、日本語の単語も意味がよく分からないまま使っていたりしますから。
─中国人に僧侶が道を聞かれる「道」には、まがいもののような中国語が登場しますね(笑)。
「道」はもともと『ポジティヴシンキングの末裔』の執筆中に書きかけたものです。しかし鉤括弧の中に偽中国語という異質なものがあるので、鉤括弧の外も見境なく無茶苦茶な文章にする『ポジティヴシンキングの末裔』には合わないなと思って途中で打ち棄てていました。今回は鉤括弧の外の文章は平明だし、中国語だから何となく『グローバライズ』っぽい。内容的に下品すぎるので入れるか迷いましたが、フランス料理のコースで言えばグラニテみたいな感じで、一編くらいはこういうものがあってもいいかなと。
─「We are the world」の歌詞が7Pにわたって繰り返されていた「絆」も印象的でした。
今回のように、登場人物たちの行動をリアルタイムで描写するという書き方をした場合、時間を飛ばす際の処理をどうするのかという問題が出てきます。最初に書いた「天然温泉 やすらぎの里」には、一行空けたところが一箇所だけあるのですが、そこも空けるか空けないかでとても迷いました。場面の連続性が断たれて行空きが入ると、そこで書き手の作為が露わに出てしまう感じがしたのです。一方で、行空きを使わず「数十分経った」といった文章で済ますと、その間の行動を描かずに圧縮してしまっています。多少の時間の伸び縮みはあれど、本当にリアルタイムの描写を徹底するなら、その「数十分」も描かなければいけない。でもそうすると、単調な場面が延々と続いたりしてしまう。
─ええ。
「絆」は他の収録作に比べて、比較的長い時間にわたる出来事を描くことに挑みました。そのため、最後まで連続的に描くのは無理だと予感して、最初に登場人物同士が出会った直後にもう、思いきって少し時間を飛ばしています。ところが、一人の外国人がヒッチハイクをして日本人四人組の車に乗せてもらうだけの話なので、困ったことに出会った後はほとんどずっと高速道路を進むだけで展開らしい展開がない。会話などで彼らがどういう人物なのか大体分かったところで、外国人がひと眠りしてくれたので、そこでも行空きを入れて時間を飛ばすことはできました。両者の出会いや交流を描いているので、片方の意識がない時は書く必要がなく、省いてもいいだろうと感じられたのです。しかしいったんパーキングに止まり、外国人が目覚めて運転手とささやかな心の交流を持った後、もしかしたら多少渋滞しているかもしれない高速道路を進む段階になり、まさか車内の会話や沈黙を延々と描く訳にはいきません。そこで「We are the world」を丸々引用することにしました。この繰り返しの多い七分越えの曲がさらに10回以上繰り返されるとなれば、一時間以上の経過が表せると考えたわけです。あわよくば長時間、高速道路をゆく倦んだ感じも……。
─フランス人のジェロームは、「フランス人」と「夜明け」の二編に登場しますね。それぞれの意図をお伺いしたいです。まずは一回目の「フランス人」での登場について教えていただけますでしょうか。
「フランス人」では、他の収録作のように登場人物同士の出会いではなく、場面と場面の出会いを描きました。それぞれの場面に属する登場人物は初対面どころか、対面すらしない出会いです。作中前半の「本当はフランス人みたいに……」という会話に呼応して、後半にフランス人のジェロームが出てきました。
─場面と場面がうまく接続するためには、どんなことが必要だとお考えですか。
「フランス人」の場合、ズボンのチャックに皮がはさまってしまった男性がグッとやる瞬間と、射精の瞬間、この両者が痛みと快感という正反対のものであれ、股間に生じる強い感覚という点でシンクロするわけです。加えて、一方の場面は「休みも取れないで働いている人」、もう一方は「悠々とバカンスを愉しむ人」という対比にもなっています。
─なるほど(笑)。では、ジェロームが二回目に登場する「夜明け」はいかがでしたか。
「夜明け」は、雑誌掲載時とは題名も内容も異なっています。先ほども少しお話しましたが、幾つもの短編を書くにあたって、その材料となる登場人物の属性やある状況をもった場面がなかなかうまく見つからず、それを担当編集者に相談したところ、もし参考にでもなればと、ご友人が勤めていらっしゃるというアイウェアを取り扱う会社の、ファミリーセールに連れて行ってくださったんです。正直その光景はあまりピンと来なかったのですが、せっかく助力してくださったのだからと、そこで見たことをもとにして一編書きました。しかしやはり、自分としてはやや違和感が残った。それで単行本にする際に変えたくなり、材料がないのは相変わらずだったので、もう一度ジェロームを出したのです。雑誌掲載の執筆時にも、他の短編でもう一度ジェロームを出そうかと考えていたこともありました。彼のような人物が好きなのです。
─下ネタについては何かこだわりがありますか。
下ネタというのは非常に一般的で、無個性な感じがするのがいいと思っています。誰がやってもあまり変わらないというか、匿名性に近いものがある。また一方で、性的な逸脱や倒錯といったものには原始的、動物的なエネルギーを感じます。自分自身はそちらの傾向に乏しいタイプなので、生き生きとそういう行動を取る人物には強く「他人」を感じてしまう。実際にいたら近づきたくありませんが、だからこそ、特に実際にはまずないようなあり方で、作中の人物として創造するぶんには面白いわけです。書くことによって「他人」に遭遇しているような感じでしょうか。
─そういうことだったんですね。少し話題が変わりますが、私たちブックショートは、「おとぎ話や昔話、民話、小説などをもとに創作したショートストーリー」を公募する企画です。先行作品をもとに新しい作品を作ることについて、何かお考えがあれば教えてください。
自分の場合も当然、創作にあたって、これまで読んだり観たりした先行作品が糧になっている部分は多分にあると思いますが、では二次創作ついて何か考えがあるかというと、正直なところ、今思いつくことは特には……すみません。
─木下さんは[創作論]で、“通俗的な場や関係に主に依った創作は既に物語られているものを物語っており、従って何も物語っていない”と書かれていました。ブックショートがテーマにしている昔話なども、ある種の通俗性を持つものだと思います。だからこそ逆に、昔話がそもそも持っている通俗性を根こそぎとってしまうような二次創作もありえるのではないかと感じました。
そうかもしれません。たとえば「桃太郎」であれば、おじいさんとおばあさんがいて、そこに桃太郎が来て息子か孫のようになって育ち……という家族性を最初の土台にしているところが、創作するにしても読むにしても、その話を入り込みやすいものにしていると思います。だから、それを取っ払ってしまうところから始めるとか……。
─ブックショートのサイトは、小説家を目指している方が多く読んでくださっているのですが、そもそも木下さんが小説という表現を選んだ理由を教えていただけますか。
もともとは小説にそこまで強い興味を持っていたわけではありません。子供の頃から比較的、本を読む環境にはありましたが、ただの娯楽、暇潰しのひとつでした。つまり単に読み物として小説を読んでいたわけです。しかしカフカを読んだ時に、読み物ではなく「書き物」としての小説を初めて感じて、書くことに強く興味を惹かれました。それがきっかけのひとつです。とくに日記やノートの中に残された未完の作品や、書き出してはすぐ途絶してしまう断片の羅列を読んでいると、ぱっと思いつくままペンを走らせる即興性や遭遇の感覚、何かをつかもうとしている苦闘のプロセス、さらに独特の文章のスピード感や運動性、こうしたものに書くことの生々しさを感じたのです。といっても作品として成立していないものばかりなので、厳密には小説未満の文章とも言えますが。
─[創作論]に、“垂直的な尖鋭性”と“水平的な伝達性”という言葉がありましたが、木下さんが“水平的な伝達性”を持つ「普通の小説」ではなく、“垂直的な尖鋭性”を持つ表現をストイックに追求する動機はどこからくるのでしょう。
世代的に、インターネットが一般化したり、スマートフォンやSNSが登場する以前に多感な時期を過ごしたのですが、その頃は今よりも、特に若い人たちの間で映画や音楽、小説といった創作物が力を持っていたと思います。まだ孤独な時間があって、あてのない感情や思考が色濃くわだかまっていた。そうした孤独に寄り添ったり、共鳴したり、深みを与えたり、夢を見させたり、それを増幅させてカタルシスをもたらしたりする。そうした体験を通じて、創作物やその分野に思い入れを持つようにもなる。だからそうやって心を動かすものが、力のある創作物だったりしたわけです。必ずしも安っぽい意味合いではなく、共感したり感動したり、叙情性に浸ったり。自分自身もそうした体験をしてきました。物凄く簡単に言えば、そうした創作物は「あなたは一人ではないんだよ」と言っているように思えます。共感したり感動したりするということは、その創作物に自分と感情的に相通ずるところがあるわけですから。しかしそういうものが、あまり面白いとは思えないのです。
─というと?
感情的に相通ずるところがあるということは、人々が共通して持っているものを感じている、あるいは人々が共通して含まれているものに浸っているわけです。そうすると、結局みんな同じようなものなんだなというか、そういう感じがしてがっかりしてしまう。特にさっき言ったような、孤独に寄り添ったり共鳴したりするものというのは、往々にして社会的な疎外とか不平とか、他の誰かと並び立つ地平における、水平的な関係の中の孤独、そういうところに作用するわけです。「あなたは一人ではないんだよ」と。すると結局、水平的な関係における疎外に対して、別の水平的な慰撫を与えているわけで、やっぱり結局、人間にはその方向しかないのかということになってしまう。またそれだと、人の弱いところを突くようなやり方と一緒になってしまう。しかし一方で、そうした水平性とは異なる方向、エモーショナルではなくオブセッシブというか、垂直的に不毛な力をたぎらせているものにはわくわくするわけです。「この人は一人なんだ」と感じる。すると相通じることなく自分も一人のまま、勇気づけられるところもあるわけです。
─さきほど、“「他人」を感じることが面白い”とおっしゃっていましたね。
他人がいるから自分もいるわけです。共感したり感動したりばかりだったら、どこにでも自分の延長を見出してしまうことになる。すると他人がいないわけですから、自分もまたいなくなる。自分も他人もみんな溶けてしまいます。しかし強く「他人」を感じられるのであれば、そういう体験によって自分が確立されていく、そんなところがあるかもしれません。それに、実社会の関わりで強烈な他人とばかり接していたら普通は精神が持ちませんし、あまりに強烈な自分をもって我が強い行動ばかり取っていたら、周囲に迷惑です。もしそうした人ばかりだったら社会が成り立たない。しかしそれが創作物を通じた範囲に限られていれば、おおむね無害と言えるのではないでしょうか。たとえば実社会では品行方正で仕事のできる尊敬する上司が、殺人や性倒錯を面白く描いた創作物を毎日の通勤電車で熱心に読んでいるというのは何だかいい感じです。でも実際に殺人を犯したりしたら、馬鹿な真似はよせよといった感じでしょう。
─ なるほど。
もっと大きな視野で言えば、そもそも人類全体としては垂直的にただ不毛に存在しているだけなのに、その中で意味や価値、感情といったものを水平的に遣り取りすることで、人はその不毛さを忘れている。一人で垂直的に力をたぎらせているような表現というのは、普通は忘れていたいその不毛さ自体にエネルギーが漲っているようなもので、虚しくもあるけれども、つい笑ってしまうような、やはり勇気づけられるようなところがあると思うのです。本当はすべてが不毛なわけですから。
─木下さんは、同時代ではどんな作家の小説を読んでいるんですか。
自分で書き始めてからは小説自体をあまり読まなくなってしまったので、同時代の小説もほとんど読んでいません。そのとき自分の書いているもの、追求している文章に意識が向いてしまうので、他のものがあまり読めないのです。
─そうなんですね。
一昔前だったら、たとえば富岡多恵子さんの「芻狗」(『波うつ土地・芻狗』講談社文芸文庫に収録)という短編は並外れて素晴らしいと思います。初めて読んだときは最後のところで大笑いしてしまいました。行き着くところまで行っているという感じで、とても尖っている。
─読んでみます。小説以外だといかがですか。
映画では、これも昔のものですが「幻の湖」がすごいと思いましたね。トンデモ映画扱いされているようで、実際、作品としては駄目なのかもしれませんが、表現としての純度は比類ないものです。Amazonでこの映画のDVDを買う際、幾つかレビューを読んだのですが、「人が持つ気持ちのグルーヴ感,」と題された投稿が非常に的確で、ほとんど同じ感想を持ちました。表現とは例えばこういうものだと思います。
─ありがとうございました。
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