辻原登(ツジハラ・ノボル)
1945年和歌山県生まれ。1990年「村の名前」で芥川龍之介賞、1999年『翔べ麒麟』で読売文学賞、2000年『遊動亭円木』で谷崎潤一郎賞、2005年『枯葉の中の青い炎』で川端康成文学賞、2011年『闇の奥』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞。地の作品に『許されざる者』、『韃靼の馬』、『冬の旅』、『寂しい丘で狩りをする』など。
『籠の鸚鵡』辻原登(新潮社 2016年9月30日)
ヤクザ、ホステス、不動産業者、町役場の出納室長。欲望と思惑は複雑に絡み合い、互いを取り返しのつかない地点へと追い詰める。情事と裏切り、そして二つの巧妙な殺人の後、彼らの目に映った世界とは? 八〇年代半ば、バブル期の和歌山を舞台に、怒濤のスリルと静謐な思索が交錯する。著者の新たな到達点を示す傑作長篇。
─新刊『籠の鸚鵡』とても楽しく拝読させていただきました。辻原さんはこれまで壮大な歴史小説やサスペンスなど様々な作品を書いておられますが、今回はバブル期の和歌山を舞台にした欲望渦巻く長編です。この作品はどのような着想から生まれたのでしょうか。
『籠の鸚鵡』は、僕のクライムノベル三部作の仕上げの作品です。5年前、『冬の旅』という一人の青年が物語のラストで残酷な殺人事件を起こす長編小説を書きました。3年前に書いた『寂しい丘で狩りをする』は、凶悪なストーカーに付け狙われる女性の物語です。そして、横領事件、暴力団、恐喝、完全犯罪を狙った計画をめぐる今回の『籠の鸚鵡』。この三作品は、それぞれ全く異なる物語ですが、「犯罪」が大きなモチーフになっているということで共通しているんです。
─犯罪をモチーフにした三部作の最後の一作が『籠の鸚鵡』。
最初は、1980年代半ばに和歌山県の下津町で実際に起こった横領事件を、小説で面白く書けないかなと考えていました。町役場の出納室長が、一人の暴力団員に恐喝されて、町の年間予算とほぼ同額の二十数億円を横領したという事件。たとえバブルの時代でも大騒ぎです。恐喝のきっかけというのはささいなことだったようですが、雪だるま式に止められなくなったという。一年半ほどで発覚して、その出納室長は逮捕されました。
─すごい事件ですね。
恐喝した暴力団員も逮捕されて裁判になった。だけど、その二十数億円のうち最終的に使い途がわかったのが、峯野が受け取った6億円だけ。町からは実際に二十数億円が消えているのに。しかも、出納室長は、自分のためには一切お金を使っていないわけです。じゃあ、残りのお金はどこに消えたのか。
一方で、スナックを経営していた峯野の愛人が、彼が逮捕された数日後に首吊り自殺をしています。ただ、それは単なる自殺として認定されたので裁判の過程では出てきません。結局、残りのお金の行方はわからなかったんです。
─二十億円近くが行方不明に……。
それで、この事件を題材に書こうと。そう考えたとき参考にしようと思ったのが、『シンプル・プラン』という映画化もされたアメリカのベストセラー小説でした。ある雪の日、田舎町で暮らす兄弟とその友人の3人がお墓参りに向かう途中、森の中で、数年前に行方不明になったセスナ機の残骸と、白骨化した操縦士の遺体、そして、440万ドルの現金を見つけた。その大金は公になっていないものなので、黙っていれば彼らのものにできる。ただ、すぐに使ってしまうと足がつくかもしれないので、数年間は保管しておこうということに。けれども、だんだんそれぞれが、自分以外の誰かに独り占めされてしまうんじゃないかと疑心暗鬼になり、物語が悲劇に向かっていく……という小説です。
─スティーブン・キングに絶賛されたスコット・スミスのデビュー作ですね。
初めは、その『シンプル・プラン』を参考に、ごく普通の家族がタケノコ狩りか何かに行って、消えた二十億円を偶然見つけ、「黙ってよう、黙ってよう」となるというような、今から思えば子供じみたことつまらないことを考えていたんです(笑)。でも、それだとそのままだな、とか色々考えて、だんだん本気になってきたときに、『シンプル・プラン』のようなお話ではなく、和歌山の事件そのものを書こうと決めました。
ただ、現実に起きた事件ですが、二十億円が未だに行方不明なんて話をそのまま小説にしたらファンタジーになってしまう。だから、6600万円という誰もが受け入れられるような金額にして、とにかく、一人の真面目な気の弱い出納室長がいて、彼がたまたま行ったバーで女と出会い、その女の背後には暴力団員がいて……という設定から始めました。
─とてもハラハラするストーリーでした。別のインタビューで辻原さんは、「小説はストーリー」だとおっしゃっていましたね。
そうですね。一つの作品を建築物だと考えると、ストーリーを作るというのは柱と梁を建てることです。主要な柱と梁が無ければ家が建たないのと同じように、小説でも映画でも舞台でも、ストーリーという骨格が必要で、それを否定するわけにはいきません。ストーリーを作るのが苦手な作家に限って、「ストーリーなんて要らない」なんて言いますが、ストーリーという柱、梁で、きっちり一つの小説空間を支えなければいけないわけです。
そして、ストーリーに加えて必要になってくるのがモチーフです。モチーフというのは建築物でいうと、壁や天井や窓、インテリアと言えるでしょう。「どういうカーテンにするか」。これがモチーフ。小説でいうと、一番わかりやすいモチーフは登場人物ですね。それに、作家の思想や絶えず繰り返される一つのイメージ、そういったものがモチーフです。
─なるほど。
ただ、建築物の場合は空間なので柱と梁があればいいんですけど、小説は、時間とともに展開していきます。登場人物が、ある出来事で今まで気づかなかった自分のことを知る、今まで出会ったことのない不思議な人物に出会う。つまり、そうやってモチーフが展開することそのものがストーリーということなんです。ストーリーがあることで、読者は小説のイメージを非常にはっきりと掴むことができます。
─モチーフが展開していくことそのものがストーリー。
小説というのは時間の芸術で、時間の中にしか成り立たちません。さらに、その時間というのも、「小説のなかで登場人物たちが生きている時間」と「読み手側の読書の時間」という二種類が流れているわけです。小説内でそれぞれの人物たちに流れている無数の時間の束と、その物語を感受していく読者の時間。僕は、ずっと一緒に流れているこの二種類の時間そのものをストーリーと言ってもいいと思うんです。つまり、モチーフが繰り返し展開して、物語が終わり、そして、最後に何かが発見される。読み終わった時にその小説の全体像が読者に明らかになるんです。
─『籠の鸚鵡』には、カヨ子と3人の男性という主要な人物、モチーフが登場します。カヨ子は、自分というものがなく、「一緒にいる相手に深く同化してくる力」を持ち、その力ゆえ男に上手く利用されてしまう女性でした。
カヨコはかわいいですよね(笑)。やくざと一緒になったら、山一抗争についていっぱしのことを言ったり、不動産屋と結婚したら、日本の地価が戦後数十倍になったとか話したり。“鸚鵡返し”のように口真似をする。「可愛い女」というチェーホフの短編の傑作にも、自分が好きになった男の意見をそのまま自分の意見にする女が登場しますが、僕は、そういう相手の影響を受けやすいタイプの方が女性として魅力を感じますね。ただ、「可愛い女」もそうですが、カヨ子も最後には強い女になる。彼女はもともと、女性の強さであり広さのようなものを持っていたんです。
─もともと持っていた。
たとえば、カヨ子が元夫の紙谷に、「女は身を売ってもすり減ったりしない」と言う場面があります。男は、そういうことをするとどんどん汚れていくように思い込んでしまうところがあるけど、実際多くの女性はそういう確信を持っていると思うんです。カヨ子自身も、平気で他の男に抱かれているわけではない。でも、芯のところには、自分は減らないという確信がある。だから、最後にはああいう行動をとったんだと思うんです。
─そんなカヨ子ですが、出納室長の梶を誘惑するために書いた手紙は刺激的でしたね(笑)。
そうですね。僕は、手紙というものを、小説の構造あるいは主要人物にとって必然であるような形で、それと同時に、物語全体を動かすような形で使いたいと考えていたんです。しかもそれは単なる手紙ではなくて、「レターセックス」と呼ばれるジャンルの手紙。レターセックスというのは、基本的には相手と会わないで、手紙で自分のセックスを生々しく伝え、お互いに満足に達するという昔からある独特の世界です。それをたまたま教えてもらって、しかも、実際に何百通と読ませてもらったことがあったので、今回、男を誘惑する一つの手段としてカヨ子にやらせたという(笑)。
─レターセックスという言葉を初めて知りました……。
手描きの絵もあるし、「これ私の淫水よ」ってシミで紙を汚していたりするんですよ。書きながら本当にエクスタシーを感じている。
人間がものを書くということは、本来は「刻む」「引っ掻く」という意味です。つまり、レターセックスの世界では、アルタミラ洞窟の壁画や石碑といった人類の最初の表現である「掻く」ということと、自分自身がエクスタシーに達するということが一体になっている。そのことが堪らないという女性がたくさんいるんです。面白いですね。
─すごい世界ですね。そのカヨ子に梶が語った「偶然やからおもしろいんや。人間の力やないゆうことや。」という言葉が心に残りました。実際に、様々な偶然が引き金となって物語が大きく動いていきます。
現実の我々の人生のかなりの部分は偶然によって占められています。全ての選択を100%自分の自由意思で決めているわけではない。でも、なぜかある方向に進んでいる。常に一刻一刻そうです。しかもそれがどういう結果をもたらのすかは全然わからない。最終的にわかるのは死ぬ寸前です。けれども、そのとき我々はもう意識を失っているから、自分の人生が本当に自由の実現だったかどうかはわからないわけです。
─そうですね。
一方、小説というのはフィクションですが、現実の似姿を提供するものです。我々が生きる、たとえば80年という人生を、数時間なり数十時間の読書で疑似体験させてくれるのが小説なんです。小説には、現実の人生と違って、最後に主人公が死なないけれど終わるものもありますが、たとえ主人公が死ななくても、もうその後がないという意味では死と同じことです。つまり、小説というのは、我々が実際には体験できない死の瞬間、人生が終わる現場に立ち会わせてくれるんです。そのとき、小説の主人公たちも僕たちと同じように、全てを自分の自由意志で選択して最期を迎えるわけではないです。たとえば、梶がカヨ子のバーに行ったというのもたまたまで、100%の自由で選択したものではない。もしその日に雪が降っていなかったら、きっと行っていなかったでしょう。そういうことの連続、つまり、偶然の積み重ねがストーリーを展開していっているわけです。
─ええ。
そして最後に、その偶然がすべてその結末に至るための道筋だったことがわかるわけです。そうすると、その偶然は、最後のところから見ると運命なんです。だから、最初から我々に自由があるわけではなくて、最後に自分の運命を受け入れること、それ自体が自由の実現ということなんです。ただ、生身の人間は最後に死んでしまうから、意識がなくなってしまうからそれを見ることができない。だけど、読者は読むことができる。「あ、そうか。これが梶の運命だったんだな」と。そして今回、梶は最後に自分の運命をちゃんと認識したんです。梶が最後に言った言葉は、滑稽ではあるけれども、彼は自分自身の運命を受け入れた。これは彼の自由の実現なんです。
そして、カヨ子もそうです。彼女も最後にああいう形で自分の運命を引き受けた。でも、そこに至るまでは、偶然だらけでした。
─カヨ子と梶の旅行では、“5分45秒”という偶然の一致が起こりました。
そういう偶然の連続の一つの象徴として、5分45秒が立て続けに3回一致するということがあったわけです。ただ、実際にはそういうことを考えて書いたわけではありません。梶は出納室長で生真面目だから、船に乗っている時間くらいは数えているわけですよ。でも、そこではそれを書いていない。その次に、忘帰洞(ぼうきどう)のエスカレーターで、「所要時間が5分45秒」というアナウンスを聞いて初めて、そういえばさっきの船も5分45秒だったと意識的になっていく。最後も、5分45秒で射精しようとは思っていないけど、梶はちゃんと時計を見たわけですよ。それで、カヨ子に「早すぎる」って言われて(笑)。
─オチもついて(笑)。
そうやって彼自身の人生の偶然性を強調しながら、「偶然こそ面白い」と言わせるなかで、梶は自分の運命を引き受ける決意を無意識のうちに強めていっているわけです。そして、最後に運命を受け入れる。自由を実現する。
この自由の認識を得るために必要なのが、ストーリーです。時間の展開です。単に話を面白くするのがストーリーではなくて、小説の本質的なものとしてストーリーは必要なんです。
─なるほど。
そして、そのストーリーを、読者は読み終わって結末をちゃんと知った上で再読できます。それはつまり、終末の視点から人生を全部眺めていることと同じことになるわけです。そうすると二度目は、偶然が必然に変わる。登場人物にはそれができないし、我々も自分の人生を最初からもう一回眺めることはできない。でも、読者にはそれができるんです。だから、再読はとても重要なことなんですよ。
─たしかにそれは読者という立場でしか体験できないですね。あとは、ストーリーとは直接関係ないかもしれませんが、梶が4回目にカヨ子のバーを訪ねたときの「彼は女の腕が妙に長くなって、棒のように伸びてきた気がした。」という一文がすごく面白いなと思いました。
腕が長く伸びるという表現は繰り返し3回くらい出てきますが、理屈抜きでこういうディテイルを書くことが作家にとって一番楽しいんですよ。小説ってストーリーや心理描写だけでは展開していかない。こういう何気無い、無意味であるかのような、いかにも現実にありそうで、でもなさそうで、という部分が小説の面白さなんです。こういうことがうまく書ければ、作家としてはもう満足なんです。僕は、「テーマがいいですね」とか「人間の悲しみが描けていますね」とかよりも、「この腕が長く伸びた部分が」と言われた方が嬉しい。「あ、やった」と思う。ちゃんと反応してくれたって(笑)。
─すごくおもしろかったです(笑)。さて、話題が変わりますが、私たちブックショートは、「おとぎ話や昔話、民話、小説などをもとに創作したショートストーリー」を公募する企画です。辻原さんは、『東京大学で世界文学を学ぶ』(集英社)のなかで『抱擁』を例に挙げてパスティーシュについて解説しておられましたが、改めて先行作品をもとに新しい作品を作ることについてのお考えを教えてください。
画家になるためにはいい絵を模写しなければいけない。作曲家、演奏家になるためには、先人の作曲を徹底的に学ぶしかない。あるいは、先人の曲を弾くしかないわけです。僕は、小説もアートだと思っていますから、徹底的に模写する必要があると思います。ただ、絵の模写とは違って小説の場合、書き写すことには何の意味もありません。問題は要約すること。つまり、エッセンスを掴むことなんです。
─エッセンスを掴むこと。
たとえば、400字詰めで原稿用紙500枚の長編小説があるとしたら、それを、20枚くらいに要約してみる。これがパスティーシュの基本です。要約するためには、何度も繰り返し読み込んでその小説世界に完全に同化し、さらにそこから戻ってくることが必要です。そうやって、その500枚の小説のエッセンス、つまり、先ほどお話した、「この小説はこういう柱とこういう梁とこういうインテリアによって成り立っている」ということを掴むんです。
それがどうして大事かというと、要約というのは、その小説の基本を捕まえることであると同時に、自分自身が小説を書くときに行う作業の逆でもあるからです。自分の世界を実際に書くためには、まずエッセンスを持たなければいけません。そのエッセンスというのは、まだ形のない自分の空想の作品の要約と言えます。その要約から、自分の本当の作品を生み出していくことができるんです。
─なるほど。
そうしたときに、ドストエフスキーやトルストイの小説を要約した訓練が絶対に役に立ちます。他者の傑作を要約することによって、自分のなかで作品のコアを作っていく力を養うことができる。だから、両方の作業を交代でやっていく。名作を読み込んで、要約する。次は、自分の想像の作品の要約を作って、それを展開していく。この繰り返し。そういう訓練が大事なんです。
─そして、名作を自分なりに要約した20枚をそのまま展開していけば、自分なりの新しい作品が生まれることにもなりますね。
それが創作になるんです。同じ小説でも、人によって全く違った要約になりますよね。それはもう、それぞれ別々の世界なんです。そして、その要約をもとに、自分の世界を広げていけばいい。そうすると、たとえば同じ『戦争と平和』から、全く違う物語が生まれるわけです。だから、昔話一つでもそういう風にすれば、エッセンスは残したまま自分の新しい作品ができますよ。それがパスティーシュ。結局、古今東西、作家たちはみんなパスティーシュをやっているんです。
─それでは最後に、小説家を志している方にメッセージいただけますでしょうか。
小説家になる夢を断念しよう、それが小説家になるための一番の早道である(笑)。
これは本当にそうなんですよ。もちろん、中学生でも高校生でも大学生でも、小説家になりたいと思う気持ちは自由です。だけど、一回断念しないと駄目。小説家になることを諦める。諦めて、思い切って社会人として一生懸命働いてみる。働くなかで、それでもどうしても書かざるをえないという自分が生まれてきたら、もう一度本気で小説家を目指したらいい。そしたら、その頃にはもう、「会社を辞めて小説家に」なんて思わないですよ。会社は辞めちゃ駄目だし、結婚したっていい、子供もいたっていい。そういう自分の社会生活に影響のない範囲で、つまり、朝早く起きたり、夜遅く寝て一日一時間でも二時間でも作って小説を読んだり書いたりすればいいわけです。そうやって初めて本物の作家を目指すことができる。いい小説が書ける。それは僕もそうでしたよ。
─辻原さんも一度は諦めた。
僕も中学生、高校生の頃から、東京に出て、小説家になりたくてしょうがなかった。でも、チャンスはあったけど全部挫折して、29歳か30歳の頃、初めて小さな会社に就職したんです。それで、やっと自分で食べられるようになった。ようやくまともな人間になれたと、その喜びは大きかったですね。だから、どんなことがあっても、どんなに苛められても、辛くても、絶対に会社を辞めないようにしようと決心した。徹底的に仕事して、ご飯を食べて、できたら結婚したいなと思ったんです。それで、会社を辞めないためにはどうするか。僕の就職した会社は零細企業でしたから大変で、小説を書くなんてことが考えられない世界でした。だから、文学を諦めようと。
─そこで決心した。
そうです。そしたら、自分の中に文学があることで余計に背負っていたものが無くなって、どんなに苦しい仕事でもものすごく楽になった。文学にこだわっていたから生きにくかったんです。しかも、諦めた途端、すぐに結婚できた(笑)。32、3歳の頃でした。
─諦めた途端に結婚まで(笑)。
僕は、自分が結婚できるなんて思っていなかったから、信じられないくらいの幸せで一杯でした。それで、ある日曜日、当時住んでいた高井戸の小さな2DKのアパートのベランダでパイプを吸っていたんです。天気がよくて、庭の木にとまった小鳥がさえずって、しかも、後ろでは女房が洗い物をしていて。そのときに、こんな幸せってあるのかと。そう感じたときに、また小説を書きたいと思ったんです。この幸せを書かないでどうするかって。
─そこからまた小説を。
そうしたら、文学を捨てたときと同じくらい平気で、文学を自分の中に手繰り寄せることができた。もちろん会社にはそのまま勤めながらです。そうやって書いた「犬かけて」が僕のデビュー作になりました。全然幸せな物語ではないですが(笑)。
僕の経験がみんなに当てはまるかどうかはわからないけど、一回文学を捨てるということはすごく重要だと思う。いつまでも文学にこだわっているよりも、一回潔く断念する。それでも僕が、「この幸福を書かないでどうするか」と思ったように、人間って面白いもので、そういう一種の偶然というか天啓に出くわす時期があるんです。ある意味では、偶然というより運命かもしれません。でも、そこに至るまでは、様々な偶然が重なっていっているわけです。そういうことです(笑)。
─ありがとうございました。
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