平野啓一郎
1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。著書は小説、『葬送』『滴り落ちる時計たちの波紋』『決壊』(芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞)『ドーン』(ドゥマゴ文学賞受賞)『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、エッセイ・対談集に『私とは何か 「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』等がある。 2014年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章。
『マチネの終わりに』平野啓一郎(毎日新聞出版 2016年4月9日)
天才ギタリストの蒔野(38)と通信社記者の洋子(40)。深く愛し合いながら一緒になることが許されない二人が、再び巡り逢う日はやってくるのか――。
出会った瞬間から強く惹かれ合った蒔野と洋子。しかし、洋子には婚約者がいた。スランプに陥りもがく蒔野。人知れず体の不調に苦しむ洋子。やがて、蒔野と洋子の間にすれ違いが生じ、ついに二人の関係は途絶えてしまうが……。芥川賞作家が贈る、至高の恋愛小説。
─新刊『マチネの終わりに』とても楽しく拝読させていただきました。まずは、今回、“大人の恋愛“をテーマにしたきっかけからお伺いできますでしょうか。
恋愛について書きたいという思いは少し前から持っていました。それも、十代のようにお互いの感情だけが高ぶったり傷ついたりというものではなく、仕事も家庭もあってという中での恋愛、そこから滲み出てくる当事者たちの人間性をリアルに描きたいなと。世の中が殺伐としている今、小説を読んでうっとり美しい世界に浸るような時間を僕自身が求めていたし、読者もそういう気分なのではないかなと思ったんです。
─主人公 蒔野聡史は、天才的なクラシック・ギタリストでした。
かつて、ショパンとドラクロワという実在の芸術家たちを主人公に『葬送』(新潮社 2002年)という小説を書きました。その作品を今でも好きだと言ってくれる読者が結構いるんですよね。僕自身も執筆中、幸福感があった。だから、また音楽家を主人公にした小説を書きたいとずっと思っていて、今回、テーマに合っているなと感じたんです。もう一つは、数年前にクラシック・ギタリストの福田進一さんが出したバッハのCDを聴いてとても感動したということもあります。
─蒔野と恋に落ちる小峰洋子はジャーナリスト。これはどこからきたのでしょう。
洋子にはモデルのような方もいるんですけど、それとは別に、イラクをはじめ中東の問題は、他人事のようでありながら実は世界中の人々が無関係ではいられないものですよね。テロを含め、そこと僕たちの世界が地続きになっているというときに、ジャーナリストという職業の人物が登場するのは、小説としては良いのではないかなと思いました。
─蒔野と洋子の出会いの場面はとても素敵でした。平野さんが提唱されている「分人」の考え方からすると、二人は出会ってすぐ、急速にお互いの分人が大きくなったとも言えますよね。
今回、分人という言葉は使いませんでしたけど、基本的にはそれが僕の人間観のベースになっています。蒔野と洋子はそれぞれ、周囲との関係の中で色々な自分をその都度生きていますし、僕も少しずつ性格を描き分けているんですけど、お互い他の誰といる時よりも二人で一緒にいるときの自分が一番生き心地が良くて、輝いているように感じられる。それが惹かれ合う理由として一番大きいと思います。最初の出会いの場面では、それが読者にも伝わるような会話を書きたかったんです。
─物語自体の名脇役である早苗の「みんな、自分の人生の主役になりたいって考える。それで苦しんでる。(中略)わたしはこの人が主役の人生の“名脇役”になりたいって、心から思った」という人生観は新鮮でした。
そういう人生観もあるのかなと。著名な人物の伝記を読んでみると、必ずと言っていいほど名脇役として輝いている人がいます。たとえば、イヴ・サンローランであれば、パートナーでありビジネスマンとしても彼を支えたピエール・ベルジェがいたように。僕は、もし自分が俳優になるとしたら、主役というよりもそういう味のある脇役に憧れます。そして、芝居や映画に限らず、リアルな人生でもそういう考え方ができるような気がしたんです。みんな、「自分が主役にならなければいけない」と思っているから人生に何か物足りなさを感じてしまうけど、自分は色々な人の人生の中でスパイスの効いた脇役を演じているな、と思えて満足できるのであれば、それも一つの人生観ですよね。
─また、早苗の“罪の総量”という発想は、洋子が戦争について語った”“他と比べて自分はまだマシだったとか(中略)そういう相対的な見方は、加害者同士の醜い目配せよ”と対照的でユニークだと感じました。
罪の総量というのは運転免許の減点法的な発想ですが、たしかに早苗の言うように、誰しも一切罪を犯さずに生きていくことなんて無理ですよね。みんな、大なり小なり、人としてどうなのかという言動をしてしまうことがあるでしょう。じゃあ、どうして許される人と許されない人がいるのかというと、やっぱり「これくらいまではしょうがない」という許容の目安がみんなの中にあるからだと思うんです。罪の総量がそこまで至っていない限りは大丈夫、というのが早苗の発想で、その後の生き方が立派であるならばその罪は許されるのではないか、人を殺したわけでもないし、どうして『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンのように、パン一個盗んだだけで一生その罪に問われなければいけないのか、という考え方は理解できる部分もあります。
─ええ。
その一方で、被害者からするとどうしたって「これくらいいいじゃん」では納得できないこともあります。慰安婦問題でよく、当時はよその国でもやっていたんだからという声を耳にしますが、加害者同士はそれで済むかもしれないですけど、被害者は、じゃあみんなやっていたから被害にあったのもしょうがないですね、なんて決して受け入れられないですよね。人は、自分の罪に対しては甘くなりがちですけど、それが行き過ぎると何でも認めてしまうことになってしまうので、どこかで踏みとどまって考える必要はありますよね。
─早苗の犯した“罪”は洋子と蒔野にとってつらいものでした。
ただ、僕は、人間の愛に“正しい愛”と“正しくない愛”があると考えることができるのか、というのは一つのテーマだと思っています。なぜなら、今の自分が、先祖全員が“正しい恋愛”をしてきた果てに存在しているとは必ずしも言い切れないからです。僕は、両親の“正しい恋愛”によって生まれてきたのかもしれない。でも、遡っていけば、強引に“正しくない結婚”をさせられたという先祖がいた可能性もあります。そして、それがもし別の“正しい結婚”だったとすれば僕は生まれてこなかったということになる。だから、子供という存在が生まれて、そこから命が続いていくことを尊重するならば、“正しくない愛”だったからといって一概に否定することはできないと思うんです。
─なるほど。
もっと極端な例を挙げると、ユーゴスラビアでは、民族紛争の際に多発した強姦によってたくさんの子供が生まれ、その世代が今、社会人になっています。その人たちは、行為としては間違ったことによって生まれてきている。けれども、当然その人たち自身の存在は尊重されなければいけないですよね。そうすると、もちろんレイプは間違っているけど、簡単にあるべきではなかった出来事と言ってしまっていいのか。僕はそういうどうしようもない矛盾を考えるのが文学だと思うんです。
─物語のなかで繰り返される“過去は変えられる”という言葉もとても心に残りました。
最初は、“変えられる”というより“変わってしまう”という印象でした。記憶というのは意外と安定していなくて、脆いし、忘却するし、何度も思い返しているうちにその都度上書きされているように変わってしまうものだなと。そう考えてみると、逆に言えば、変えることだって可能なんだなと気づいたんです。
─たしかにそうですね。
いまだに多くの人が、フロイトのトラウマ説のような、「現在の自分がこうなのは過去にこんなことがあったからだ」「過去にこんなことがあったから現在の自分はこうなんだ」という堂々巡りの考えに囚われ過ぎて前に進めなくなっているように感じます。僕はかつて、未来との関係から現在を考えていくべきではないかという発想を『ドーン』(講談社 2009年)という小説のなかで書きました。同じように過去についても、認識の仕方によって記憶自体も変わっていくわけだから、過去の認識を変えることは、結局、過去自体を変えることになるのではないかなと思ったんです。それによって、悪い方に変わってしまうこともあるかもしれませんけど、前進できることもあるでしょう。
─蒔野と洋子が“あったかもしれない現実とは別の世界”に何度も頭を巡らせ、早苗も自分の幸福に“おかしさ”を感じたように、この物語を読んで、「なぜ自分は今生きている人生を生きているんだろう」と、運命や自由意志について考えさせられました。
2000年代以降、社会で「自己責任」という言葉が蔓延していますよね。貧乏なのは努力が足りないからだとか、お金持ちになろうとしないからだとか。だけど、現実的に考えて、努力すれば全員がお金持ちになれるわけでもない。社会自体が構造的に格差を生み出すようなシステムを作っているなかで、本人の意志や努力の問題とは関係なく、貧しさから抜け出せない状況があるのではないかとずっと感じていたんですよね。
震災について考えても、東北には、津波がいつかくると意識にあった人はたくさんいたと思うんですけど、じゃあなぜあの時だったのか、というタイミングに関しては予測不可能でした。もし一時間後に津波がきていたら、高台に移動して死なずに済んだ人もいたかもしれないし、その逆の人もいたかもしれない。その時その瞬間にその場所にいたということは、人間の努力とは無関係だったと思います。
─そうですね。
もう一方で、テクノロジーが進歩していくなかで、人間の自由はどこまであるのかという問題にも興味があります。自由にはどうしてもリスクが伴います。たとえば自動車の運転だって、人間の自由にさせている限り事故率は一定の割合以下にはどうしてもならない。だったらもう自動運転にした方がいいというような時代に、どこまで人間の自由があって、どこから先はどうしようもない運命的なことなのか。今回、恋愛を描くことで、そうした自由と運命的なことの関係を書けるのではないかという気はしていました。
─洋子とその父 ソリッチが交わした自由意志と運命論についての会話も印象的でした。
過去を振り返る時に運命論が無ければ、全部自分の責任なんだろうかとつらくなってしまうし、未来は自分で切り開けると信じられなければ、あまりにも寂しいですよね。その二人の会話のなかでも少し書きましたが、どこまで自分がシステムの一部として生かされていて、どこから自分に自由があるのかという問題は、ハリウッドのエンターテイメント系の映画でもここ最近描かれてきているような気がします。「マトリックス」はその典型ですけど、意外とエンタメの方がそういうことに敏感なのかもしれません。
─『マチネの終わりに』は希望を感じる終わり方でしたが、ラストから先がどうなるのか、とても気になりました(笑)。
そこは読者がそれぞれ考えたり、話し合う時間かなと(笑)。この物語がどう続いてほしいと思うかに、その人の恋愛観や家族観が出てくるような気がします。連載中から、この小説について人と話したいという感想がけっこうあったんです。「スカイプで女子会をしました」とか「昔の友達と文通を始めました」とか。それは、今までの僕の小説にはあまりなかった反応ですね。
─今回、新聞連載と同時にインターネット(note)でも作品を公開したことで、読者からよりたくさんの反応があったかと思います。それは、作品作りに影響しましたか。
読者の反応によってプロットを大幅に変えるということはありませんでしたが、自分としても筆が乗ってきたときにコメントでも読者の盛り上がりを感じられると、それがまたモチベーションに繋がりましたね。
─早苗が“罪”を犯したときにはコメント欄も盛り上がったでしょうね。
盛り上がっていましたね(笑)。早苗は困った人物で、noteの書き込みを読んでも、やっぱり早苗を許せないという読者が多数でした。だけど、2割程度はそれでもなんだか共感できるという読者がいて。僕は、どこか早苗を理解できるというか、そういう人間の弱さに共感している部分もあったので、それは良かったなと思いましたね。それで、書籍化にあたって、その割合が7:3くらいまでになるように、もう少し早苗の心情を書き込んでもいいのかもしれないなと考えたりしました。
─『マチネの終わりに』のなかで、「次の時代への時間的な、垂直の影響力」という蒔野の言葉が出てきましたが、私たちブックショートは、「おとぎ話や昔話、民話、小説などをもとに創作したショートストーリー」を公募してショートフィルム化する企画です。先行作品をもとに新しい作品を作ること、先行作品の影響についてのお考えがあればお話いただけますでしょうか。
僕は、文学の歴史の上で小説を書いているという意識がすごく強いですね。自分の作品がポンと宙に浮いているというよりも、その作品の背景に、ものすごく豊かな文学作品が網の目のようにリンクして広がっているというイメージで。だから、特定のテーマについて書こうと思った時には、それに近いテーマを扱っている小説を集中的に読んだりということはしています。
─具体的な作品を前提とした二次創作についてはいかがですか。
魅力的な登場人物やストーリーを考えるのはすごく難しいので、先行作品を利用できれば色々と作りやすくなりますよね。映画でも、ヒーローものや「バットマン」は、監督が原型を使いながら自分の世界を表現していますし。
─ご自身の作品が下の世代に与える影響についてはいかがですか。
蒔野と同じように、僕も影響力がないと寂しいと思いますね。作家の評価って、結局最後はそこに行きつくのではないでしょうか。どれくらい自分から大きな影響を受けた次の世代の人たちがいるのか。それはすごく重要なことだと考えています。
─小説家を目指している方や、ブックショートの応募者にアドバイスをいただけますでしょうか。
小説を書く上では、読者の想像する余地をいかに快適に整備するかということも大事です。僕もつい書き過ぎてしまうこともありますけど、やっぱり読者の想像で埋めてもらった方がいいところもあります。でも、単に殺伐とした広場がポンとあるだけでは駄目で、色々なイマジネーションが湧くようなスペースを綺麗にデザインしなければ読者の想像力を活かせない。ましてや、映像作品の原作になるのであれば、読者が関与する余地を感じさせるような書き方が必要だと思います。
─読者が想像する余地。
たとえば、エロチックな場面を書く時、著者が詳細な描写した方がそういう気分が喚起されるかというと必ずしもそうではなくて、ディテールを書けば書くほど、読者は受け身になってしまいます。微妙なところですが、「これはどういうことなのかな?」と感じさせるような省略があると、読む側が自分の記憶や体験を振り返って、「こういうことなんじゃないか」とそこを埋めていかなければいけなります。そうすると、そこに生々しいものが含まれて、能動的にその世界に入り込まざるをえなくなる。そうやって、自分の書いた言葉と読者の個人的な体験が混ざり合って、書いた以上の世界が広がっていくんです。
─ありがとうございました。
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