星野智幸
1965年、アメリカ・ロサンゼルス市生まれ。88年、早稲田大学卒業。新聞社勤務後、メキシコに留学。97年「最後の吐息」で文藝賞を受賞しデビュー。2000年『目覚めよと人魚は歌う』で三島由紀夫賞、03年『ファンタジスタ』で野間文芸新人賞、10年『俺俺』で大江健三郎賞、05年『夜は終わらない』で読売文学賞を受賞。他の著作に『嫐嬲』『毒身温泉』『ロンリー・ハーツ・キラー』『アルカロイド・ラヴァーズ』『在日ヲロシヤ人の悲劇』『虹とクロエの物語』『われら猫の子』『植物診断室』『無問道』『水族』『未来の記憶は蘭のなかで作られる』などがある。
『呪文』星野智幸(河出書房新社 2015年9月14日)
それは、希望という名の恐怖――寂れゆく松保商店街に現れた若きリーダー図領。人々は彼の言葉に熱狂し、街は活気を帯びる。希望に満ちた未来に誰もが喜ばずにはいられなかったが……。
─『呪文』拝読させていただきました。まずは物語の舞台についてお伺いさせてください。「週間読書人」のインタビューで星野さんは、“寂れゆく商店街を舞台にして、日本社会の縮図、「小宇宙」のような形として書こうと思いました。”と語っておられました。詳しくお伺いできますでしょうか。
最初は、寂れゆく商店街の物語を書こうとしていました。でも、2012年頃から急に、ヘイトスピーチや生活保護バッシングが日本の社会に吹き荒れ始めたので、その現実に作品で向き合おうと思ったんです。それで、もともと書こうとしていた寂れゆく商店街を舞台に、現在、目の当たりにしている暴力を重ねて書けるのではないかと考えました。つまり、商店街は経済活動も含んだ人生のあらゆる局面が含まれている共同体なので、商店街を書けば、それはそのまま日本の社会を凝縮した形になるな、と。だから、その外には出ないように、商店街だけで全てが進んで行く話にしました。
─物語の前半、対立するディスラー総統と図領による、それぞれ自分こそが「正義」だと訴える文章がインターネットで雪崩を打ったように伝播していきます。星野さんがこの二人やそれに追随する人々の「正義」について感じていることを教えてください。
まず大前提として、「何が正義か」ということは、いつも僕の中で重要な問題として存在しています。およそ25年程前、湾岸戦争の頃に中上健次が柄谷行人との対談で、”正義は正義だ。不正義は不正義だ。それを言わないとどうしようもない、というところに来ています。このままでは、文学が成り立たなくなる。” と語っていました。それが、すごく強く印象に残っています。文学というのは、ある意味で色々なものを相対化していく力、世界をよりメタレベルから観ていくことを繰り返していくメディアだと思いますが、中上健次は、それだけでは成り立たなくなっている、何が正義かはっきり言わないといけないような状況になっている、と主張した。それ以降、僕は、相対化の作業の一方で、「何が正義か」を考えなければ、文学がシニカルなもの、ある種のニヒリズムしかもたらさないものになってしまう、とずっと考えてきたわけです。
─文学も正義に正面から向き合う必要があるということですね。
はい。まずは自分にとって「何が正義か」ということを、明確に意識にしておく。もしかして、自分を正当化して正義や正しさだと思い込んでいるだけではないか、と何度も自問しながら考えていくことが必要だと思うんです。
一方で、ある人にとっての正義が他の人にとっての正義ではないという状況が起こります。その場合、どれが本当に正義なのかを証明することは不可能に近い。それぞれが本当に普遍的な正義や正しさだと信じている場合、他人がそれを論破するのはとても難しいです。だから、どちらが正義かという話になると収拾がつかなくなってしまうのですが、現実的にその正義が良いのか悪いのかを判断する場合には、それが暴力かどうかということが基準になると考えています。
─暴力かどうか。
自分にとっての正義が、それを信じない他者の存在を脅かしたり傷つけたりする暴力になっていないか。そこをまず問うことが一番重要だと思います。いくら正義だと主張しても、それが他人を犠牲にしたり、傷つけたりして成り立っているのであれば、その正義は怪しいし、それを信じる行為は問題を含んでいます。だから、改めるなり歯止めをかけるなり、みんなで考えなければいけない。現実的には、正しさの証明よりもそちらの方が重要だと考えています。
─なるほど。
ディスラー総統と図領の場合は、その力関係が細かく入れ替わっているような状況です。一方がもう一方に対して暴力を行使している場合には、暴力を受けた側の言い分の方に理があるように思えるし、力関係が逆転して、逆側がそれを非難する時に暴力を伴っている状態になったら、今度は逆側に、ある種の筋が立つ。この二人の場合は力関係が目まぐるしく動いていますけど、どちらも自分の力が相手より上で暴力を振るっている状態では、その優位な立場に任せてどんどん過激になっていくので、問題がたくさん起こるということですね。
─図領は、ブログによって得られた多数の共感の中毒になり、自分の意思を超えて暴走していきます。図領の妻 秋奈の“これから起こることは、何かわからないけれど知覚不能な巨大な存在によって運命として決まっていたこと、人間ごときには書き換えるのは不可能。そんな諦念に襲われ、気力が抜けるような感じがする。”という予感が象徴的でした。
この小説は、強権や独裁を振るう人間の話ではなくて、そういうものを生み出す力、同調圧力がどこから生まれてくるのか、そして、その同調圧力になぜみんなが進んで身を差し出すのかということに焦点を当てています。同調圧力というものは、作り上げられたある種の均質空間、集団において、自分もその中の一員でいたいという気持ちが生み出すものです。もし、自分以外の周りの人全てが同調圧力に身を捧げた状態になってしまったとしても、その集団内だけが特殊な状況であるのならば、集団の外側に出ることで解放されるという望みがあるわけですが、外側に出ても同じだったり、外側に出ることができないと感じてしまったら、途端に巨大な絶望と無力感が襲ってくるでしょう。そうなると、多くの人はおそらく諦めてしまう。そして、その中で生きるしかないのであれば、そこに身を委ねた方が自分も楽になれると考えてしまうと思うんです。
─外部が消えてしまうんですね。
そう、外部があるのに消える。学校のいじめもきっとそういう風に起こっています。子供にとって学校は、世界の全てです。だから、みんなが自分の敵、自分に対して暴力を振るう側になってしまったら、そこに身を差し出す以外の選択肢は無くなってしまうと思うんですよね。本当は外があっても、もう外がないのだ、ここにいるしかないのだと思った途端に、そこは密室空間になり、あきらめが全身を支配してしまう。そして、全体主義的な力構造が出来上がると思うんです。自分がいじめのターゲットになっていなくても、その中ではみんなが、自分の道を行くこと、別のあり方を作り出すことはできないと感じてしまい、それが密室状態を維持させます。そもそも日本の場合、多くの人は、自分の欲望を貫くかどうかという選択肢のずっと手前で、無意識にまず周りに合わせてしまうので、そのことがまた、密室状態の醸成をすごく早めてしまうんだと思います。
─かつて星野さんは別のインタビューで、留学していたメキシコで学んだこととして“他人にはいくらでも迷惑かけていいんだということ”を挙げておられましたが、その人生観の差異はどこからくるのか、星野さんのお考えを教えてください。
メキシコをはじめラテンアメリカは、基本的に混血社会です。地域によりますが、先住民系、入植してきたスペインなどヨーロッパ系、アフリカ系、そして移民してきたアジア系の人々が暮らしています。世界中の人種が社会の中に混ざっているので、文化習慣にかなりバリエーションがあるわけです。そして、それぞれが自分の文化や習慣を当然のこととして生きているので、他人のことが気にならないし、気にしてもしょうがないし、という違いがあるのかもしれません。
─なるほど。
一方、日本にはずっと、単一民族幻想、純血幻想が強くあると思うんです。だからどうしても、自分の生活圏に入ってくる自分たちとは違う存在に対してある種の拒絶感を持ってしまう。日本に住んだ外国人から、「日本人は親切なんだけれども、住もうとするとすごく冷たくなる。」とよく聞きます。つまり、自分たちと同じであるかどうかということが、懐に入れるかどうかの大きな基準になっているんです。同じように、自分の行動を決める時にもそういう感覚がどうしても出てきてしまうところがあるのかな、という気がしますね。
─そういうところがあるかもしれないです。
日本の社会では、見えない形での様々な規範が漠然と形成されています。それを察知して読み取るのがいわゆる「空気を読む」ということですよね。この社会で育っていけば、学校だけでなく家庭でも会社でもそういう生き方を色々な形で学ばされるので、どうやってもそれが身についてしまいます。みんなが、自分が所属している集団のなかで何が規範となっているのかを必ず見分けて、それを逸脱しないようにするということを無意識でやっているわけですね。でもメキシコでは、そういう習慣はほとんど無いし、誰も教えないので、最初からそういうことは考えない。だから、彼らは本当に自分のしたいことに忠実です。ある意味ですごく無邪気なんですよね。
─その違いはおもしろいですね。どちらが良いとか悪いの話ではないかもしれないですけど。
まさにそうです。向こうはそれが極端な問題を生み出してもいるわけですから、必ずしも全てが美点とは言えない。ただ、日本のこういう息苦しい社会から眺めたときに、ああいう風に生きることもできるのではないかな、ああいう風にだって生きられるんだ、と考える参考にはなるかもしれないですよね。
─知っているというだけで全然違いますもんね。
震災以降の日本の社会状況を考えると、相当な部分の人がストレスを抱えていたり、自分に充実や価値を感じられなくなっています。そういう状況では、なおさら密室化は起こりやすい。そしてそれは、自分のしたいことに素直である人を許せなくなるという形で表出します。ただ、それが自分より強い存在であれば、まずは敵意を向けにくいわけです。でも、それが自分より弱いとなった瞬間、噴出するようにそこに向かいます。さらに、同じように不満を溜め込んでいる人たちが同調して攻撃し発散させるという形、取り囲んで密室にしてしまうという状態を作っていくわけですね。
─主人公 霧生を含む「未来系」の「クズ道というは死ぬことと見つけたり」という狂った思想は、『俺俺』(新潮社 2010年)で「俺」が「俺」に食べられることで生きる歓びを生まれて初めて味わった場面を想起させました。
どちらも極端に否定的なおぞましい自傷でないと自分に価値を見出せないという状態ですね。『俺俺』の場合は、自分が自分に食べられるという、他人の役に立っているのかさえよくわからない状態であるにもかかわらず、それでようやく自分に価値を見出すという。よくよく考えると、ごまかしがありますよね。「クズ道というは死ぬことと見つけたり」も同じようなものです。基本的に価値として捉えるものではないものが価値とされてしまっている。だけど、これはやはり日本文化の異様なところだと思うんですよね。例えば、何か失態を起こした時とかに「詰め腹を切らされる」なんていう表現が残っていますよね。これは侍の時代の切腹文化が、ある種の歪んだ価値観となって伝えられていることの証だと思うんですね。
─ええ。
もし、腹を切る以外の方法で自殺をした場合、大抵はネガティブで、タブーという扱いをされますよね。決してその死が立派だと言われることはないでしょう。むしろ社会からは、後ろ暗い行為に及んだ問題含みの人間と見られてしまいがちなので、遺族も自殺だったと言えないことが多いわけです。ところが切腹だと急に、輝かしい、勇気のある行為ということになってしまう。全く理解できない価値の転倒が起こります。その考え方が、第二次世界大戦においては特攻隊や靖国神社のイデオロギーという形で利用されたわけですよね。日本では、本当にその人たちが死を選んでいるというよりも、その人たちを死に追いやることを称揚するような文化が折に触れ吹き出してきます。そして、今の日本を観ていると、それが隆盛を迎えそうな印象がすごく強い。だから、この小説でそれについて書いたということもあります。
─鍼灸院の湯北さんは、同調圧力に飲まれた商店街の人々とは一貫して距離を保ち続けました。彼女には現実を直視する強さがあり、ディストピアに射す一筋の光のように感じられました。
『呪文』の世界の人々は、呪文にかかりたがっているわけです。単に誰かによって強力に洗脳されただけではなくて、そもそも、洗脳されたい、呪文にかかりたいという強い欲求を持っていたんですよね。それで、図領から発生したある種の呪文に自ら飛びついてかかっていった。一方、湯北さんは、呪文にかかりたいという欲求が他の人に比べて圧倒的に少なかったと思うんです。なぜかというと、他の人々は、自分は我慢している、我慢させられている、不当だ、被害者だというフラストレーションを飽和させていたわけですが、彼女は、自分がやりたいことをやってお店もうまくいっているので、フラストレーションが少なかったから。
ただ、湯北さんは、自分のお店がうまくいっているという意味ではそれなりに手腕があるのかもしれないですが、例えばオリンピックの金メダリストのような強いメンタルを持った抜群にスーパーな人間なのかというと、そういうわけでもありません。普通の人の範囲内で、少し経営の才能があるという程度なんですよね。普通の人でもそういう状態であれば、そこまで周りに流されたり、自分を差し出したりするような真似をしないでもいられるのではないかという例として、彼女を書きたかったという思いがあります。
─ただ、現在の日本の経済状況からいうと、みんなが湯北さんのようになるのは難しいことのようにも思えます。
そうですね。ただ、今は単に経済状況ということだけでもなくて、職場でも学校でも就職活動でも、「いつでもお前は交換可能だ。替わりなんていくらでもいる。」という様に、人の自尊感情を砕いていくような状態が蔓延しています。その部分は変えられると思うんですよ。悪い方向に引きずり込んでいくスパイラルを逆回転させることができれば、ここまでみんな追い詰められないし、洗脳されないと気が済まないというような状態までにはならないのではないでしょうか。湯北さんが霧生にしようとしたのはそういうことだと思います。霧生は決してお店がうまくいっているわけではないし、この先だってわからない。だけど、少なくとも自分ができている部分に関しては、自分で自分を評価するという感覚を取り戻した。湯北さんは霧生に、必要以上にネガティブな方向に落ちていくのではなくて、自分がやりたいことをやっているんだったら、失敗しようがクズなんかじゃない、と伝えることで、彼が呪われたがる方向に行くのを断ち切ろうとしたんのではないか、ということですね。
─霧生も、実はこれまでに自分の意思で行動した経験を持っていたんですよね。
彼は、自信や決断力に乏しい人間だから、いつも不安を抱えています。だけど、肝心なところでは自分の意思で行動している。日本のマジョリティで自分に自信がない人の多くも、実は霧生と同じなのかもしれません。自分の過去を探せば、周りに流されたのではなくて自分で選んだ、決めたという経験がきっと何かあると思うし、やろうと思えばできる力も本当は持っている。けれど、日本の社会では、それを自分で打ち消してしまったり、その選択をする前に流されてしまうことが多いから、それが自分に跳ね返ってきて、無意識のうちに不満が溜まってしまう。それが、呪われたがる原動力になってしまうように思うんですよね。
─一度立ち止まって、自分の過去を振り返ってみるといいのかもしれませんね。
本当にそうです。そうすることで、自分に自信を持てるきっかけ、その大きな足がかりになると思いますね。
─話題が変わりますが、私たちブックショートは、「おとぎ話や昔話、民話、小説などをもとに創作したショートストーリー」を公募する企画です。星野さんの長編小説『夜は終わらない』(講談社 2014年)は、『アラビアンナイト』の構造(女が、男に殺されないために毎夜物語を語る)をアレンジして、「男が、女に殺されないために毎夜物語を語る」という形式で話が進んでいきますね。先行作品をもとに新しい作品を作ることについてのお考えを教えてください。
元からそういう書き方をしているところがあって、デビュー作「最後の吐息」も、自分の好きな小説を色々取り込んだり派生させるようにして書きました。僕は、基本的に文学というのは常に書き換えなのではないかと思っています。僕が若い頃にはポストモダンの考え方として、「全ては書き尽くされていて、これから書かれる小説というのはその組み直しでしかない」という言い方もされていました。ただ僕は、好きな小説を、単に好きだからという理由で作品に取り入れているわけではありません。好きで読み込んだ小説はもはや、食事のように自分の体の血肉になって、人生の一部を作り上げているわけです。そこまで自分と一体化している作品だからこそ、小説に引用したり、先行作品として使うことができるようになるんだと思います。だから、ちょっと面白かったからこの設定だけ使おうということでは、なかなかいい小説にはならないでしょうね。
─読むことと書くことは繋がっているんですね。
読まないと書けないというのはそういうことだと思います。創造的な読みがないと小説は生まれません。創造的な読みが、ただ読むだけという行為を超えてしまったときに、先行作品という器から言葉が溢れ出てきて、次の作品が生まれるんです。
それと同時に、先行作品を読者が読んでいなくても、派生した作品が自立して読めるということもすごく重要です。いわゆる二次創作というのは、一次作品を読んでいることを前提にして、その差分を楽しむという魅力もありますが、その小説世界として独立していることも大事なことだと思います。
─また、ブックショートの大賞作品はショートフィルム化されます。2013年に『俺俺』が三木聡監督・脚本、亀梨和也(KAT-TUN)主演で映画化された星野さんの、映像化についてのお考えをお伺いさせてください。
映画にとっての原作は、先行作品のようなものなので、映画は、原作を読んだ監督による別の新しい作品だと捉えています。そのとき僕は、先行作品を書いた立場です。そこにどれだけ創造的な読みがあって、さらにそれを食い破ってどんな新しいものが出てきているのかを目の当たりにすると、いい意味で驚きがありますね。自分が他人の小説を読んで、その映像化作品を観るのとは違う感覚です。一度自分の中を通過したものがさらに監督の中を通過して出てきたとき、自分では思ってもみない姿形をしているというのは、不思議な体験です。
─最後に、ブックショートに応募しようと思っている方にメッセージいただけますでしょうか。
ひらすら読者を楽しませるものを書きたい人や、一発当てて成功したいという人に僕がアドバイスできることは、残念ながらありません。文学として言葉を書かずにはいられないという人には、とにかく文学にはタブーも限界もないので、自分から出てくる言葉に歯止めをかけず、行くところまで行く努力をしてみてほしいと思います。そうやっても小説は不自由なので、いくら書いても自分の中にあるものを全然表現し切れてないという気持ちになるでしょう。それでもまずは、自分の感じているものを突き詰めることを目指して欲しい。それは、かけがえのないエネルギーを自分から放出する作業でもあります。それを続けて、行き着くところに近づくことができたという感触を持てたとき、小説を書いていくうえで絶対に覆らない自信になるでしょう。それは自分でしかできないことだから。
─ありがとうございました。
*賞金100万円+ショートフィルム化「第5回ブックショートアワード」ご応募受付中*
*インタビューリスト*
馳星周さん(2019.1.31)
本谷有希子さん(2018.9.27)
上野歩さん(2018.5.31)
住野よるさん(2018.3.9)
小山田浩子さん(2018.3.2)
磯﨑憲一郎さん(2017.11.15)
藤野可織さん(2017.11.14)
はあちゅうさん(2017.9.22)
鴻上尚史さん(2017.8.31)
古川真人さん(2017.8.23)
小林エリカさん(2017.6.29)
海猫沢めろんさん(2017.6.26)
折原みとさん(2017.4.14)
大前粟生さん(2017.3.25)
川上弘美さん(2017.3.15)
松浦寿輝さん(2017.3.3)
恩田陸さん(2017.2.27)
小川洋子さん(2017.1.21)
犬童一心さん(2016.12.19)
米澤穂信さん(2016.11.28)
芳川泰久さん(2016.11.8)
トンミ・キンヌネンさん(2016.10.21)
綿矢りささん(2016.10.6)
吉田修一さん(2016.9.29)
辻原登さん(2016.9.20)
崔実さん(2016.8.9)
松波太郎さん(2016.8.2)
山田詠美さん(2016.6.21)
中村文則さん(2016.6.14)
鹿島田真希さん(2016.6.7)
木下古栗さん(2016.5.16)
島本理生さん(2016.4.20)
平野啓一郎さん(2016.4.19)
滝口悠生さん(2016.3.18)
西加奈子さん(2016.2.10)
白石一文さん(2016.1.18)
重松清さん(2015.12.28)
青木淳悟さん(2015.12.21)
長嶋有さん(2015.12.4)
星野智幸さん(2015.10.28)
朝井リョウさん(2015.10.26)
堀江敏幸さん(2015.10.7)
穂村弘さん(2015.10.2)
青山七恵さん(2015.9.8)
円城塔さん(2015.9.3)
町田康さん(2015.8.24)
いしいしんじさん(2015.8.5)
三浦しをんさん(2015.8.4)
上田岳弘さん(2015.7.22)
角野栄子さん(2015.7.13)
片岡義男さん(2015.6.29)
辻村深月さん(2015.6.17)
小野正嗣さん(2015.6.8)
前田司郎さん(2015.5.27)
山崎ナオコーラさん(2015.5.18)
奥泉光さん(2015.4.22)
古川日出男さん(2015.4.20)
高橋源一郎さん(2015.4.10)
東直子さん(2015.4.7)
いしわたり淳治さん(2015.3.23)
森見登美彦さん(2015.3.14)
西川美和さん(2015.3.4)
最果タヒさん(2015.2.25)
岸本佐知子さん(2015.2.6)
森博嗣さん(2015.1.24)
柴崎友香さん(2015.1.8)
阿刀田高さん(2014.12.25)
池澤夏樹さん(2014.12.6)
いとうせいこうさん(2014.11.27)
島田雅彦さん(2014.11.22)
有川浩さん(2014.11.5)
川村元気さん(2014.10.29)
梨木香歩さん(2014.10.23)
吉田篤弘さん(2014.10.1)
冲方丁さん(2014.9.22)
今日マチ子さん(2014.9.7)
中島京子さん(2014.8.26)
湊かなえさん(2014.7.18)