前田司郎
1977年、東京都品川区東五反田出身。劇作家、演出家、脚本家、俳優、小説家。和光大学在学中に劇団「五反田団」を旗揚げ。2005年、『愛でもない青春でもない旅立たない』で小説家デビュー。主な著書に『ジ、エクストリーム、スキヤキ』『大木家のたのしい旅行 新婚地獄篇』など、舞台に「シティボーイズファイナル part.1「燃えるゴミ」」「生きてるものはいないのか」、脚本に「ファナモ(世にも奇妙な物語)」「徒歩7分」などがある。各方面で高い評価を得る、いま注目の作家のひとり。
『私たちは塩を減らそう』前田司郎(キノブックス 2015年5月30日)
劇作家、演出家、役者、作家、様々な分野で異彩を放つ前田司郎による短編集。
「世にも奇妙な物語」で放送され話題を呼んだ『次世代排泄物ファナモ』の原作や最新描き下ろし『私たちは塩を減らそう』も収録。
─新刊『私たちは塩を減らそう』には表題作をはじめ、書き出しの一行で引き込まれる作品が多数収録されていました。“私は塩を減らそうと思っている。” (「私たちは塩を減らそう」)、“彼が一番輝いているのは、ご飯をお椀にもっているときだった。”(「お米を宝石だと言う人」)。書き出しで意識されていることはありますか。
僕自身が本を買う時、本屋さんで最初の数ページを立ち読みして選ぶので、最初の一行、一ページは大事にしたいと思ってます。だから、できるだけ興味をそそる、続きを読みたいと思えるように書こうという意識は持っていますね。ただ同時に、そこだけにあまりこだわり過ぎないようにも気をつけています。
─収録されている「ウンコに代わる次世代排泄物ファナモ」は、2014年秋に『世にも奇妙な物語』でTVドラマ化され、インターネット上でも大きな話題となった作品です。次世代排泄物という着想はどのようなところから得たのでしょうか。
人間の体が今後さらに進化していくとしたらどうなるのかと考えていたら、排泄物が頭に浮かびました。排泄する時って無防備ですよね。動物でも狙われるタイミングだし、汚物の匂いで天敵に自分の存在がバレてしまうこともあります。これまでの生き物の進化の中でどうしてもそこだけは解決できなかったんだな、じゃあもしそこを進化させるとしたらどうなるんだろう、匂いもない無機的ものになるんじゃないかな、とぼんやり考えたのが最初です。
それに今、世界がどんどん綺麗になっていっているような気がするんです。街から薄暗い場所や汚いお店が消え、野良犬もいなくなり、有機的なものがなくなって無機質なものに置き換えられていくような。僕は「これやばいんじゃないかな、このままいくとどうなってしまうんだろう」という気味の悪さをかなり前から持っていて、それがテーマになっていきました。
─今回収録されている「悪い双子」や「部屋の中で」にも有機物なものと無機物の関係性がテーマにあったと感じました。
人間が何か別のものになろうとしているような気がするんです。例えば最近だと、脇汗を止める商品なんてありますよね。「大丈夫かよそんなことして」って思います。怖いですよね。雑誌の表紙に載っている人間の写真なんかも、ニキビやシワが修正されていて。それがあるからこそ人間なのに、そういう部分をツルツルにしていこうとする感覚がいき過ぎているんじゃないかと。そして、今後もそれがさらにエスカレートする方向にあるように思えて。実はみんなもちょっとずつそういうことに気持ち悪さを感じているんじゃないのかな、と。それを止めることはできないのかな、と僕は考えていて、それが作品に反映されているところがあるのかもしれません。
─TVドラマ『世にも奇妙な物語』ではラストが小説と変わっていましたね。
僕は小説ではあまり綺麗なオチをつけるのが好きではないのですが、15分のドラマにするときには、視聴者の印象に残るようにオチをつけなればいけないと考えました。また、ドラマの脚本を書いたときは、小説を書いた当時(2006年)よりもさらに世の中が潔癖症になっていっているように感じていました。もはや脅迫的と言ってもいい。「このままいくとおかしくなっちゃうぞ」という恐怖をさらに感じています。だから、小説にくらべTVドラマではよりセンセーショナルな、衝撃的なラストになりました。
─前田さんの作品の魅力の一つに、日常のなかで人がするちょっとした演技や“ふり”を描いている場面があると思います。今回の作品でいうと、“私はずいんぶん久しぶりに東京タワーに来たから登ってみたかったけど、彼は高いところには全く興味を示さなかった。そうするとなんだか私だけ馬鹿みたいだから、私もあまり興味の無いふりをして、歩き出す。”(「私たちは塩を減らそう」)のような場面です。前田さんご自身は、日常のなかで他人のそういった行動に対して敏感ですか。
そこまであからさまではなくても、人が日常の中で演技することはすごく多いような気がします。僕は芝居をやっているので、そういうところに敏感になっているのかも知れませんが。
たとえば、ある芝居で、登場人物Aさんとその上司が二人で喫茶店にいるとします。そこで上司が、Aさんに対してすごく失礼なことを言う。Aさんはその上司の発言に対してイラッとします。でも、相手が上司だから、Aさんはその怒りを表にだすことはしない、隠さなければいけないんですよね。一方、Aさんを演じる役者は、観客には登場人物Aさんが怒っていることを伝える必要があります。役者と登場人物の意図が逆を向くのです。そういう場面が芝居では頻繁にあります。宿命と言ってもいいかもしれない。
─Aさんという芝居の登場人物とそれを演じる俳優が、全く逆の情報を出そうとしているわけですね。
そういうとき、単純な演出の芝居や、尺の短いTVドラマのように物語を詰め込んでいる作品の場合は、観客や視聴者に「Aさんが怒っていること」を伝えることを最優先にして、本来Aさんとしては怒っていることを隠さなければいけないのに、演出や俳優の都合で「Aさんが怒っている」という芝居をさせてしまいます。
だけど、僕はそれをダサいと思うからやりたくない。そうなると、「登場人物Aさんは怒っていて、なおかつそれを隠そうとしている」という演技が俳優に要求されます。小説の場合は内面を書くことができますが、芝居では、それを演技で見せなければいけない。「怒っているんだけど怒ってみえない」という、微妙なところを狙わなければいけません。それは日常から学ばなければできないですね。普段、どういう風に情報が周りに伝わっているのか、目の動きなのか、体の動きなのか、表情なのか、それをよく観察していなければ気付けないんです。だから日常でもそういうところを意識しています。
─収録作品「悪い双子」は、記憶の曖昧さを描いた作品でもあります。前田さんは別のインタビューでも記憶の不確かさについて語っていらっしゃいましたが、とても面白い考え方だと思いました。改めて詳しくお伺いできればと思います。
今、自分がここに存在していることは確かなことかもしれないですけど、過去に自分がこうであった、ということは記憶でしかありません。それを確実に証明することなんてできないわけです。もし記憶が飛んでしまったとしたら、自分が一体何者であるかわからなくなってしまいますよね。僕は、そう考えることが本来前提としてあるべきだと思うんです。この先もずっと自分が自分であり続けるとみんな信じていますけど、それは今までの記憶が裏打ちしているに過ぎません。つまり、一昨日寝て昨日起きたら自分だった、昨日寝て今日起きたら今日も自分だった、だから今日寝て明日起きても自分だろう、と。でも、それは単に過去からの推測でしかなくて、実は何の保証にもなっていないですよね。
─たしかにそうですね。
だから「自分」というものは確固たるものではなくて、もっとすごくぼんやりしたものだと思うんです。たとえば、みんな「自分が人を殺すはずなんてない」と思っていますけど、そんなことはわからないですよね。今まで激情に駆られて人を傷つけたことがないというだけで、今後もそうかというと実はわからない。きっと殺人者の何割かは、まさか自分が人を殺すとは思っていなかったはずです。そんな風に、人格や「自分」なんて本当は存在しないのではないかと考えて、そこから作品が生まれたというところがあります。
─「嫌な話」では、人が死んだ時に、他人が負うべき責任の境界線を考えさせらました。
人が死ぬということを考えたとき、例えば、戦争責任の話があります。たしかに僕たちの上の世代の日本人が戦争して、大勢の人を殺して、殺されたりしました。でも、日本が戦争しなければいけなくなった背景には、ヨーロッパの戦争があって、さらにその背景には別の要素があって…と考えていくと、じゃあ一体誰が一番悪いんだという話になりますよね。日本人は悪くないんだという人もいるかもしれないし、日本人が悪いと考える人もいます。
じゃあ日本人って何だろうと考えると、そもそも日本人は日本の国土からブクブク湧いてきたわけではないですよね。元をたどれば大陸から渡ってきているだろうし、大陸の人たちもその起源を辿れば、今の研究だとアフリカからきているらしい。そうなってくると、国籍や国というのも、元は同じだったものをあとから勝手に分別しただけのように思えるし、そういう問題も、そのなかで責任を押し付け合っているだけのようにも感じられます。
─なるほど。そういう考え方もできますね。
それを、人が死ぬすごく身近な原因、交通事故で考えたのが「嫌な話」です。車に轢かれて亡くなった人がいたとして、車で轢いた人が悪い、でも、飛び出した人も悪い、じゃあ車を開発した人はどうだ、と。車の事故で多くの人が亡くなっていることは数字で証明されていますよね。だけど、ピストルは手放すけど車は便利だから手放さない。その判断はそれで正しいのかとか。また、そういうことを別にして、車で人を轢いてしまったらその轢いた人が全部責任を負うというシステムもなんだかよくわからない。そういうことを考えていくと、すごく嫌な気持ちになるなと思ったんです。だからこのタイトルにしました。
─前田さんは「ウンコに代わる次世代排泄物ファナモ」も含め、TVドラマや映画の脚本、そして戯曲も書かれています。小説を書くときと、脚本を書くとき、戯曲を書くときの意識の違いを教えていただけますでしょうか。
根は全て同じですが、作品によって出口が違います。小説であれば書いて、その文章を読者が読んで完結します。戯曲の場合は、書いて、俳優と稽古して、演出家が入って、劇場で上演されて、それをお客さんが観て完結、という流れなので、その流通経路の違いを計算しています。それに加えて、観る人の層も考慮しなければいけません。小説の場合はお金を払ってわざわざ読んでくれるので、読み解くのにある程度時間と労力がかかる書き方でも許されるという印象です。TVドラマの場合は、実質無料のような感覚で観てもらっているので、できるだけ情報のノイズを減らそうと考えながら書いていますね。
─面白いですね。
演劇は小説に近いですが、そこに人がいるのでリアリティの感覚が違います。たとえば小説で「そこに絶世の美女が立っていた。」と書いておけば、読者はそれぞれ自分の考える絶世の美女をイメージしてくれます。一方、芝居の場合は絶世の美女役の女優さんを連れてこなければならないわけです。その場合、女優さんはある人にとっては“絶世の美女”かもしれないけど、別の人にとっては“普通の可愛い女の子”ということが起こります。戯曲ではそういう箇所のリアリティの飛躍を面白い方向にしなければいけないということを意識しています。
─話題が変わりますが、私たちブックショートは、「おとぎ話や昔話、民話、小説などをもとに創作したショートストーリー(1,000〜10,000文字)」を公募する企画です。前田さんは、FOILのWebサイトの連載で桃太郎をモチーフとした小説『桃が太郎を産んだのか』を書いていらっしゃいます。先行作品をもとに新しい物語を作り出すことについてのお考えを教えてください。
『桃太郎』のような昔話やおとぎ話は、まだ識字率が高くなかった時代からの物語で、幾人もの口を通って編集がなされ、無駄を削って真に必要な情報だけが残ってできている作品だと思います。そこに無駄な情報を足していくというのが僕の『桃が太郎を産んだのか』なんですけど、書く側としては面白い試みだと感じています。ただ、『桃が太郎を産んだのか』はまだ未完なので、いつか書き上げたいですね。
一人の作家が書いた作品の二次創作については、結構難しいのかな、という印象です。僕の仕事のなかでは、吉田修一さんの小説『横道世之介』から映画のシナリオを書いた経験が近いかもしれません。あれは、吉田修一さんという小説家が「小説家の言語」で書いた文章を、僕が「シナリオの言葉」に翻訳したというようなイメージです。また、劇作家と演出家と俳優の関係もそれに似ています。演劇では、劇作家が「劇作家の言葉」で書いた戯曲を、演出家が「俳優の言葉」に翻訳して俳優に伝えます。逆に、俳優が「俳優の言葉」で戯曲を読み解く時にもやっぱり演出家という翻訳家が間に入って、劇作家と俳優の会話を成り立たせています。
─なるほど。
その時、演出家にも大きく分けて2タイプいるんです。一つは、できるだけ正確に劇作家の言葉を伝えようとする、プロの翻訳作業に徹した演出家。そして、もう一つは翻訳に自分の恣意を入れてくる演出家です。どちらが良いということではないですが、後者のタイプの演出家が入ると作品は、劇作家がイメージした世界とはかなり違った様相を呈したものになります。そういう演出の方法、翻訳の仕方をパブリックドメインの作品に対して施せば、全く新たな作品として書くことができるかもしれないですね。ただそのためには、それだけの想像力と強い意志、そして作品に対する尊敬あるいは軽蔑といった特別な感情を持たなければ、単なる焼き直しで終わってしまう気がします。それでは意味がありませんよね。ブックショートの話を聞いて懸念するのは先行作品にちょっと付け足すだけみたいな小説ばかりになってしまったらすごくダサいな、ということです。翻訳家としての能力を発揮して、全く意訳したものを作るとか、元の作品を読んで、それが書かれた根っこの部分を受け取って全く違う木を育てる、というような書き方ができれば面白い企画になるのかなと思いました。
─最後に、小説家を志している方(ブックショートに応募しようと思っている方)にアドバイスいただけましたら幸いです。
書くことを仕事にしようとしては駄目なのではないでしょうか。一銭にもならなくても、バイトしながらでも、書きたくてしょうがない、書かないとやっていけないという人が最終的に残るんだと思います。また、そう願います。仕事だから書くという人は、仮にデビューして何冊か出版できたとしても精神的にきついでしょうし、そのうちきっと書けなくなってしまうような気がします。
ただ、今、自分がそういう人間かどうかすぐにはわからないでしょうから、とりあえず書き続けてみることがいいと思います。
─ありがとうございました。
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