奥泉光
1956年生まれ。作家、近畿大学教授。1986年に『地の鳥 天の魚群』でデビュー。1994年『石の来歴』で第110回芥川賞受賞。主な著書に『ノヴァーリスの引用』(第15回野間文芸新人賞)、『『吾輩は猫である』殺人事件』、『鳥類学者のファンタジア』、『坊ちゃん忍者幕末見聞録』、『神器』(第62回野間文芸賞)、『シューマンの指』、『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』、『東京自叙伝』(第50回谷崎潤一郎賞)などがある。
『夏目漱石、読んじゃえば?』奥泉光 著 / 香日ゆら 漫画・イラスト(河出書房新社 2015/4/22)
漱石って文豪と言われているけど面白いの? どう読めばいいの? そもそも小説の面白さって何? 奥泉光が全く新しい読み方、伝授します。香日ゆらによる漱石案内漫画付き。
─新刊『夏目漱石、読んじゃえば?』拝読させていただきました。中学生以上を対象にした『14歳の世渡り術』シリーズからの出版ですが、大人でも目から鱗のお話が満載でとても面白かったです。まずは、夏目漱石をテーマにされた理由について教えて下さい。
そもそもは編集者から、一人の作家を紹介する企画ものを書いてみませんか、という提案を受けたことがきっかけです。そこで、僕が紹介できる作家を考えたときに、それが漱石だったということですね。
僕は、読者には大きく分けて二つのタイプが存在すると思っています。一つは特定の作家をものすごく好きになってその人の作品をすべて網羅するというタイプ。そしてもう一つが、あまり作者にこだわらず色々な作品が好きだというタイプです。僕は前者のようなマニアックな読者ではなく、後者なんですよね。この作家もいいしあの作家もいい、という。そのなかにあって数少ない例外、この作家が好きだなというのが漱石だったので、今回、選びました。
─冒頭で述べられている“読書をする上で最初から最後まで「全部読む」必要は無い”という考え方にはハッとさせられました。
読書という行為について、「ある作品と自分の関係を取り結ぶ」ことだとイメージするといいと思うんです。本当に面白いと感じた小説は、一回読んでお終いではなく何回も繰り返し読みたくなります。それは映画や音楽も同じですよね。繰り返し体験したくなるのが本当に面白い作品だと思います。
それで小説について考えると、言ってしまえばその一番の本質は物語ではなく、言葉なんですよね。言葉や字体の面白さが小説にはあります。だから、言葉を出発点に捉え、その言葉、文章をどう味わうか、どう面白がるかということを考えると、極端な言い方ですが、小説を一定の集中力で最初から最後まで読むということは必ずしも重要ではありません。
─お気に入りのページ、文章だけを何度も読み返すという経験が私にもあります。
まさにそういうことです。それをこの本では絵画の例を挙げて説明しています。絵画を鑑賞する際には、細部を観たり、遠ざかって全体を観たりということを繰り返します。それと同じような感覚で読書を捉えることができるのではないでしょうか。
また、映画や音楽と違って小説は、一つの作品をどのくらいのスパンで読むか、自分でコントロールできます。一週間で読む人もいれば一年かけて読む人もいますし、一気に読む人もいれば途切れ途切れで読む人もいます。非常に自由な関係を取り結ぶことができるのが小説なんです。
─お話を伺っていると、読書に対して気が楽になりますね。
読書には、最初から最後までみっちり読まなければいけないとか、理解しなければいけないという固定概念があります。でも、理解するとはどういうことなのかというのも難しい問題ですし、そもそも小説は、読者が自分で面白さを作っていくものなんです。活字に過ぎない小説から、ある世界を立ち上げていかなければならない。そこは、視覚や聴覚から色んな情報がどんどん入ってくる映画やTVドラマとは違うところでしょうね。小説とは、読者が自分で作った世界を自分で面白がるというジャンルなんです。だからこの本の扉にも書いたように、「小説が人生の役に立つかはわかりません。でも、人生は小説を面白く読むのに役に立つ」という逆説が成り立つことになります。
─奥泉先生が提唱されている“実験文芸学”についてお伺いさせてください。『夏目漱石、読んじゃえば?』の第1章では『吾輩は猫である』の「蛇飯」を例に、物語中のお話を実験してみることを提案していますね。
小説を読んでいると妙なシーンや不思議なシーンを見かけることがあります。それが本当にできるのかを実地で試してみるというのは面白いと思うんですよね。たとえば中上健次の『枯木灘』で描かれたシーン。主人公たちが、熊野川の支流で鮎を浅瀬に追い込んで手づかみするというエピソードが書かれているのですが、本当にそんなことできるのかと。近畿大学の学生たちがやったんですが、うまくできなかったですね(笑)。でも、そういう興味から小説と関わってみる、色んな形で小説と付き合ってみる、というのも楽しいと思います。
─実験文芸学では他に、第3章で『夢十夜』の“続編”「夢十一夜」を書いてみるというアイデアも提案されていましたね。実際に、奥泉先生の作品には『吾輩は猫である』の“続編”『『吾輩は猫である』殺人事件』があります。上海が舞台で、「猫」のみならず『夢十夜』や、ホームズ、ワトソンも登場するとても楽しい作品でした。
『『吾輩は猫である』殺人事件』奥泉光(新潮社 1996年)
『猫』の最後で死んだはずが、目覚めたらなぜか上海にいた「吾輩」。そこへ飛び込んだ、苦沙弥先生殺害の報、そして犯人はこの街に。個性的な猫たちが、上海の街を縦横無尽に駆け回って事件解決に大活躍、お馴染みの登場人物も総出演。漱石文体を駆使した書下ろし一千枚、“純文学”をぶっ飛ばす奇想天外の冒険ミステリー。
僕が小説家になった最大の理由は『吾輩は猫である』を読んだからです。読んでいなかったら小説家にはなっていなかったと思います。だから、作家生活をスタートしたときから『吾輩は猫である』のパスティーシュ、パロディで作品を書きたいという気持ちはありました。それで、丁度いいタイミングがあったので書いたのですが、すごく労力がかかりましたね。長い作品ですし、文章や言葉遣いを作っていくのに大変苦労しました。自分の手持ちの言葉だけでスムーズに書いていくというタイプの作品ではなかったわけです。漱石の持っていた教養の幅みたいなものを測りながら、言ってみれば、言葉を探しながら書いたという感覚でしたね。
─まさに、漱石が書いたような作品でした。
例えば冒頭の、“黒漆桶(こくしっつう)に在るが如く、天地四方黒漫々(こくまんまん)として”という文章。“黒漆桶”なんて、普通使わない言葉ですよね。だけど、日本語の素晴らしいところは、意味がわからなくても、“黒い漆の桶”と漢字で書けば理解できることです。あと、“黒漫々”という言葉も知らなかったし、使ったこともないです。漱石の作品にも出てこない。でも、漱石も読んでいた『禅林句集(ぜんりんくしゅう)』という禅語の本を入手して、そこから見つけました。“黒漫々”は、はじめ“真っ暗な”と書いていたのですが、ちょっと違うんだよな、別のフレーズが欲しいんだよなと思って、類語辞典で探すわけですが、いい言葉が無い。それで『禅林句集』のページをひたすらめくって、なんか“黒”という字を見つけた、“黒漫々”、あ、これは面白い言葉だし、グルーヴがいいよね、と。まさにこの作品は、言葉のコラージュでした。
─『『吾輩は猫である』殺人事件』のほかにも、奥泉先生の作品には『坊ちゃん』をモチーフにした幕末が舞台の歴史ファンタジー『坊ちゃん忍者幕末見聞録』があります。愉快なキャラクターが多数登場するユニークな作品でした。
『坊ちゃん忍者幕末見聞録』奥泉光(中央公論新社 2001年)
時は幕末、庄内藩。師匠で養父でもある甚右衛門から霞流忍術を仕込まれた横川松吉。幼なじみの寅太郎を道連れに、医者を目指して京へ旅立つ。やがて二人は京で尊攘の志士たちの熱気に巻き込まれ…。
わりに短い作品なのに登場人物が多いことが『坊ちゃん』の面白いところであり、魅力だと思います。漱石は、それほど一人一人を描き込んではいないのですが、個性を際立たせる技法で書いている。だから、僕もこの作品では多様なキャラクターを出したいと思っていました。なかでもお気に入りの登場人物は「苺田幸左衛門」ですね。主人公たちが京に上るときに付いて来てしまう浪人で、とても貧乏な脱藩者。彼は新撰組に入るにあたって「まさかお金のためではないでしょうね。」と問われたとき、あっさり肯定してしまうような性格で、幕末に生きているのに全く思想の無い男です。彼は僕の友達の間でも人気があります。余裕があれば、苺田幸左衛門を主人公にしたスピンオフ作品を書きたいぐらいです。
─『夏目漱石、読んじゃえば?』では、“坊ちゃんの孤独”についても触れられていました。
『坊ちゃん』をよくよく読むと、主人公の坊ちゃんは、「この人、大丈夫か。」という性格です。というか、大丈夫な人ではありません。まともに他人とコミュニケーションをとれない。孤独なんです。僕は『坊ちゃん忍者幕末見聞録』を書くとき、そんな坊ちゃんを孤独からなんとか救い上げたいという密かな意図を持っていたんだと思います。だから僕の書いた坊ちゃんには友達がいます。それに、「もっとちゃんと喋らなければいけない。」と坂本龍馬に説教されたりもします。僕はこの作品に、やっぱり言葉できちんとコミュニケーションしなければ駄目なんだ、というメッセージを込めたんです。漱石の『坊ちゃん』に無かったものを、僕の『坊ちゃん』では取り返したい、そういう気持ちはありましたね。
─なるほど。ところで、『夏目漱石、読んじゃえば?』でも触れられていますが、奥泉先生は小説をテーマにフルートを演奏されているそうですね。
いとうせいこうさんと二人で「文芸漫談」というイベントに出演していて、毎回最後に必ずフルートを吹いています。いとうさんの朗読や楽器に合わせた即興演奏です。夏目漱石の『こころ』で吹いたこともありますね。いとうさんが朗読する文章に合うように考えて吹きました。
─聴いてみたかったです。
最近では、僕はどうやら、トークとフルート演奏がセットの人だと認識されているようです(笑)。何かに出演するときには必ず吹いているんですよね。このあいだも谷崎潤一郎賞のメモリアルイベントでも吹きましたし、今度出演するTV番組でも演奏します。以前はラジオでも吹きました。そういうキャラクターになってしまっているようですね(笑)。
─最後に、小説家を志している方(ブックショートに応募しようと思っている方)にメッセージいただけますでしょうか。
小説を書く人にはいつも必ず同じアドバイスをしています。それは、「自分が読んで面白いと思う小説」、「こんな小説が世の中に存在したら絶対に自分は読むぞという作品」を書けばいい、ということです。それに尽きると思いますね。
新人でもプロでもみんな同じですが、やっぱり人間というのは格好つけがちです。頭が良く見られたいとか、深いこと考えていると思われたいとか。でも、そんなことに囚われていては駄目で、本当に自分が読みたいと思えるような小説を書く。この原則で貫くということが大切です。
ほとんどの人にとって、小説を書こうと思ったきっかけは、面白い小説を読んだからだと思います。つまり、面白い小説を読んだ経験を自分の手で再現したいということなんです。その欲求は小説に限らず、他の芸術分野も全部そうでしょう。その一番純粋な動機に忠実になるべきだと思います。
─パスティーシュにおいては特にそれが言えますよね。
パスティーシュを書くのであれば、その面白さの中心は文章にあります。文章の良さ、それを自分の手で再現したい、とすれば必ずしも同じようなストーリーである必要はありません。例えば、僕は『新・地底旅行』(朝日新聞社 2004年)という作品を漱石の文体で書きました。ストーリーは地底旅行ですから、漱石がそんなことを書くわけがないんです。でも、あれはパスティーシュです。漱石の文体、文章の持つ魅力を自分の手で再現しながら書きました。面白いパスティーシュを書くためには、ストーリーではなくて、文章に惚れなければいけないと思いますね。
─ありがとうございました。
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