小説

『羅刹の子宮』柘榴木昴(『羅生門』)

 ルルルルル、電話が鳴り続く。
 ルルルル……ピーという電子音。
 「あ、私なごやかサービスのケアマネジャーの大原と申します。あの、入所の空きの件でお電話しました。また改めてお電話します。よければ連絡ください。電話番号は……」
 知っている番号だった。月曜日の朝かかってくる番号。大原さんの旦那さんはケアマネジャーという高齢者サービスの相談員だった。大原さんの働くなごやかサービスは比較的大きな社会福祉法人で、入所サービスも配食サービスもやっている。月曜のデイサービスはなごやかサービスを使っているのだ。デイサービスは休みでも事業所はやっているらしい。
 入所の空き? ……母を入れてくれるのだろうか。だがこんな乱暴な入居者でもいいのだろうか。乱暴だから、入れてくれるかもしれない。大原さんが状況を察して旦那さんに直接相談してくれたんだろう。
「母さん」
 思い至って膝をつく。母は動かない。赤い帯の上で何もかもが静止していた。母を母さんと呼んだのはいつぶりだろう。母が私を息子だと思っていない以上、私が母さんと呼ばなければ親子ではなくなってしまうというのに。
 母さん。私を生んだ人。65年と数か月前、私はこの人から生まれたんだ。そういえば弟は何をしているんだろう。同じ腹から生まれたというのに随分差があるじゃないか。今日は休みだろうか。久しぶりに電話してみようか。やはり出ないのだろうか。お前、たまには帰って来いよ。弟は母の真実を知っているのだろうか。そして私のことを責めるのだろうか。やはり振り回されて損していると寂しそうに言うのだろうか。じゃあ、私は、僕は、どうすればよかったんだろう。親友が金に困ったとき、母さんがおかしくなったとき、祖母を殺したと知ったとき。
 だってさ、僕の周りで困ってるんだもの。仕方ないじゃないか。仕方ないじゃないか……。
 テレビが何か笑っている。何が楽しいのだろう。きっと面白いことがあるんだろう。この家の外では。この五年、家の中はずいぶん物が減った。危ないから片付けた物もあれば、汚れて捨てざるを得なくなったものもある。でも外には何でもある気がした。楽しいことが山とあるんだ。
 母さんの亡骸に声をかける。
「母さん」
 謝るわけでもなく、感謝するわけでもない。後悔もなければ清々しさもなかった。もう、何もなかった。
 台所の机に弁当が二つ、手つかずで置いてある。私はなごやかサービスに電話すると受話器を置いて家を出ようとした。もちろんあてはない。弟には迷惑をかけるだろう。

 と、そのとき。

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