小説

『羅刹の子宮』柘榴木昴(『羅生門』)

 眠れない。母は台所で騒いでいる。冷蔵庫に何もないので怒鳴っている。「なんだあこの店は! 何にもないのか! 人をなめとるな!」
 母の認知症は明らかに悪くなっていた。今ではここが自宅かどうかもわからないらしい。介護度は上がり介護保険の額は増えたが相変わらず状況は芳しくない。マシになったのは自分が馴れてきたというだけで、馴れてしまった自分に嫌気もさす。生活が続けば続くほど、壊れた母との時間が積もっていき世間から私は霞んでいくのだ。それに。
 眠れなかった。理由はわかっている。今月のはじめに母がこぼしたあの言葉。事実なのか妄言なのかは判断できないが、私の心臓にしっかり楔として打ち込まれたあの言葉。
 奥の部屋は静かになっていた。テレビの声だけ漏れている。母は寝たのだろうか。朝まで静かなままだといいけれど。できれば朝になっても、この先ずっとずっと静かであればいいのに……。
 そこまで自然に考えが辿りつき、背中を悪霊めいた黒く冷たいものがなぞる。母の言葉から生まれたその悪霊は復讐の青い焔を腹に宿している。私に似た、母に似た悪霊の顔。白く黒く歪んで笑う顔。ぬらりと口をひらいて震える声で、怯えた眼差しで声を漏らす。なんだあ、この家はなんだあ、おまえらはなんだあ……。
 眠れない。
 心臓を汗が伝うようなぬめりとした感触。悪霊なんてありえないことなのはわかっている。聞こえないはずなのもわかっている。それは介護生活特有の閉塞感と、終わりの見えない徒労からくる幻覚というだけではない。あの言葉。母の真実……。
 頭の後ろがしびれてくる。私が沈んでいくのは深い眠りか魔女の住む沼か。夢の奥で、母ではなくなった母の言葉が転がり出る。私は耳栓の上から手で塞ぐ。母の首を絞めようとした手で言葉をふさぐ。聞きたくない事実。それは壊れた脳が作り出したデタラメなのか。それとも緩んだ脳からこぼれた母の記憶なのか。
 壊れた日常を壊す非日常。悪霊が私の中に居場所を見つけようとまとわりつく。私の中の沼地に頭から入り込もうとする。私は、いや母は、母になにをするつもりだ。
 この番組はフィクションです。あははは。テロップを読みあげる母の声が聞こえた。

 五月の空は、天気だけは爽快だった。洗濯機を回して朝食のパンを天棚から取り出す。ここなら小柄な母は取り出せない。冷蔵庫には基本的にその日の食料と飲み物しか入れない。母が夜中に食い散らかした挙句嘔吐するのだ。不思議なことに、馴れてくると便や尿より吐瀉物のほうが抵抗がある。内職の箱を玄関から居間にもってきてコーヒーを飲みながらテレビをつける。今日は日曜日だった。いつもと違うコメンテーターがいつものように殺人事件を報道する。この世は死にあふれている。人が死んでスポンサーが付き人が死ぬ情報を消費者が見比べる。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10