小説

『羅刹の子宮』柘榴木昴(『羅生門』)

 怖い世の中ですね、と毎日聞くセリフをかき消すように隣から叫び声が聞こえた。
 母が怒りながら部屋から出てきた。
「どういうことなの! なんで部屋が濡れとるの! なんだあここは! なめとるなあ!」
 目だけ向ける。腿のあたりが濡れて張り付いている。
 母は昔宿場町の大店で働いていたことがある。その頃料理人だった父と結婚してこの辺で小料理屋を開き、アル中になった父と別れて給食センターと夜の接客業をしながら私と弟を育てた。故に接客や清潔にはうるさい。ゆえに自分の小便で部屋が汚れたとしてもそれは誰かのせいであり、毎日繰り返される不潔行為はすべて誰かの悪意である。そして腹いせは対処する私に向けられる。
 部屋に向かうとポータブルトイレの周りが濡れていた。とはいえ新聞が大体吸収してくれているので濡れた新聞を捨ててその下の撥水マットを拭きとればいい。大変なのは本人の方だった。
 ポータブルトイレ以上に母も小便で濡れている。オムツは見当たらない。
 着替えをさせなければならないが、母からすると弟も私もすでに見知らぬ何者か、らしい。いいとこ旅行先の旅館の従業員だ。母曰く立派になったという弟は、地方で大きな車工場の事務をしている。今では結婚もして事務長にもなったらしいが実家であるここには寄り付かない。父を反面教師に真面目に育った結果、酒や男に振り回される両親に嫌気がさしたのだろう。私はといえばやはり振り回される側だった。自分でいうのもなんだけどいい奴だったので友人に振り回されて借金を負い、完済したもののその評判のせいか昇進も結婚もできずに毎日倉庫でセメントや石灰石のタンクをリフトで運んでいた。五年前、最後の同期が管理職になるのを見届けて、早期退職した。もちろん介護のためだった。弟は私が人に振り回されてばかりなのを、見下しこそしなかったが理解できないと言っていた。
 バケツとゴム手袋と雑巾で武装し母の服を脱がす。
 「なんだあ、おまえは! 誰かー! 殺されるー!」
 母からすると自分は追剥ぎなのだろうな、と思いながら小便に濡れたワンピースを脱がす。そういえばそんな話があったなとぼんやり考える。そうだ。芥川龍之介の『羅生門』だ。老婆を追剥ぐ場面があったな。骨と皮ばかりの体は、それでも凄まじい力で抵抗してきた。今、母は自分をいくつだと思っているのだろう。何度か聞いたがその都度デタラメに変わる。30歳になったり女学生になったりするのだ。ビンタが飛んできた。80過ぎの老婆の抵抗。
 仕方ないのだと自分に言い聞かせる。見知らぬの男に部屋を汚された挙句着替えを強要される。それが母の頭の中なのだ。いつもは女性のヘルパーと二人がかりだし、朝早くて母が覚醒しきってないうちに着替えを行う。今日は日曜日なのでヘルパーさんもデイサービスもやっていなかった。介護に休みはないが、業者には休みがある。それにいくら介護保険が使えるといってもタダではない。積み重なれば生活を圧迫する出費になる。

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