小説

『羅刹の子宮』柘榴木昴(『羅生門』)

 だからここまでやってきた。この人の息子である、ただそれだけの理由でここまでやってきた。毎日罵られ、殴られ、小便にまみれながら。母を預けた日にはラブホテルの清掃パートで働き、母がいる日はこうしてボールペンをひたすら組み立て続けている。
 親子だから。その絆は暖かくも呪われている。
 悪霊の顔が浮かぶ。そうだ。親子だから。親子なのに。
 私の人生は壊れた母の余生に捧げるためなのだろうか。何度も繰り返した自問自答の回答は出ていた。それでいい。自分の大切なもののために時間を費やすことの何がいけない? これは自分で選んだのだ。確かに他に選択肢はなかった。入所施設は空いていない、むしろ通いのデイサービスだって最初のころは暴力行為で追い返されていたのだ。今だって週に三回、全部違うところに預けている。
 でも受け入れた。飲み込んだのか諦めたのかはわからない。別に、他にやる事もないのだ。これでいいじゃないか。母親の世話する。十分に誇れることじゃないか。
 だがそれには前提があった。
 母が、誇れる母親であったからという前提が。
 逡巡する思考はスタート地点に舞い戻る。これも日常だった。作業の手つきが煩雑になりボールペンのインクが手に着いた。黒い染みは徐々に大きくなり悪霊となってぬめりと私の指先から這い寄ってくる。絡みついてくる。入り込んでくる。母に似て私に似た白くて黒い細い線のあつまり。手を払う。目を閉じる。耳をふさぐ。曇った声が聞こえる。ああ、お前は何だあ。おお、おお、ヨシ坊かあ。おぅおぅようきたようきた……。
 チャイムが鳴った。私は転がるように居間を飛び出して玄関へ向かう。配食サービスの女性が弁当を持ってきてくれていた。母が家にいる日は弁当を頼むのだ。そうすればよほどのことがない限り家から出なくて済む。今日の担当は大原さんという四十台前半くらいの気の良い人だ。実際に調理にもかかわっているため料理のコツなんかを教えてもらった事もある。
「こんにちわ。……あら、大丈夫ですか」
「ああ、どうも。ええ、大丈夫です」
 息が上がっていた。背中に汗もかいている。65歳にもなってこんなに冷や汗をかくなんて。助かったと思う反面、動揺を見せてはいけないと顔を伏せる。さっさと弁当を受け取る。だが相手は弁当を離さない。この業界の人間は異変を敏感に察知するか、鈍感を装って見過ごすかどちらかなのだ。大原さんが覗き込む。
「あの、義郎さん、お母さんの具合はどうですか」

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