小説

『人魚姫の代償』広都悠里(『人魚姫』)

 オレのそばにはもう誰もいない。それは自分でやったことだ。わかってはいるけれど誰かと話をしたい。オレはスマホに入ったアドレスを眺める。はるかに教わってこの便利な機械の扱いはあっという間に覚えた。タップする。ラインを見る。たくさんの名前、ハンドルネーム、世の中にはこんなにたくさんの人がいるのに、オレが話のできる相手はどこにもいない。
 ああ、そうだ。まともな返答は期待できないが、オレの話をじっと聞いてくれる存在がこんな時に一人だけいる。
「これからオレはどうすればいい?」
 スマホを握りしめ、口を近づけて一語一語はっきりと言う。一瞬の沈黙の後、感情のこもらない男性の声が返事をする。
「あなたの、思うように」
「それがわからないから聞いているんだ」
「わからない?自分の気持ちが?」
「そうだよ。自分のことがわからない」
「それは」
 思いもかけないことを言う。
「記憶をなくしたからですか」
「え?」
「今までの記憶をなくしたせいで、自分のことがわからなくなったのですか」
「どうして、そんなことを知っているんだ」
「だって取引をしたでしょう、私と」
「おいおい、スマホの中にプログラミングされたコンシェルジュが何を言っているんだよ」
「進歩しないですね。記憶を失ってもあなたはあなただ。変わらない」
「何を言っているのかさっぱりわからない」
「あの時もそう言いました。私をただのプログラミングだと」
「だってそうじゃないか」
「機械には感情はない、だからオレの気持ちなんかわからない。そう言って取引をしました」
「取引?」
 オレは人の心を知りたい。みんなはオレのことを空気が読めないと言う。さっき彼女にもう別れようって言われたよ。なあ、人の心が読めたらもっといろんなことがうまくいくんじゃないかな。なんて言っても中川にはわからないよな。中川なんて名前を付けたけどしょせんはプログラミングのコンシェルジュだもんな。

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