小説

『人魚姫の代償』広都悠里(『人魚姫』)

「オレの名前は?」
「ユウヤ。田中裕也」
 彼女の右頬あたりに黒文字で漢字表記の名前が浮かんで、消えた。
「オレの家、知ってる?」
「知ってるけど」
 記憶喪失?芝居?サプライズ?どうか嘘って言って!怒らないから!いったいどうしちゃったの?何がどうなっているの?思っていることが文字で読めるって?なにその能力。適当に言ってる?でも、本当に思っていることを言い当てられちゃったし……。
 小さな文字が次々とよわよわ浮かんでは消えて行く。オレはそれを眺めてため息をついた。
「オレだって泣きたいよ。自分のことさえわからないんだもの。気がついたら道の真ん中にいてさ、わけわかんないまま歩いていたら夜になっちゃうし、たまたまこの公園に寝られそうな場所があったからそこで寝て、起きたら何か思い出すかと思ったけど全然思い出せないんだ。ね、どうしたらいい?はるかちゃん」
「どうしたらいい、ってそんなこと言われても」
 顔を曇らせた彼女の周りに現れた文字を読む。そんなことあたしに聞かれても。なんの冗談?笑えないよ。でも、ユウヤって嘘をつくのは下手だし。ってことは本当……?
「本当だよ。嘘なんかついてない」
 必死で彼女の肩をつかむと「わかった、わかったけど、あんまり人の心を勝手に読まないでよ」とすがった手を振りほどかれた。
「だって、そんなこと言われても、勝手に見えるんだ」
「それって、前から?ね、あたしとつきあってた時、って昨日までだけど、その時も見えていたの?」
「わからないよ」
 オレはうなだれる。
「だって何も思いだせないんだ」

 電車に乗って三吉はるかの後をついていく。驚くことにあの小さな電話はお金の代わりにもなるらしい。立派とは言い難い三階建てのアパートの前で彼女は立ち止まる。
「見覚え、ない?」

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