小説

『水鏡』藤田竹彦(『死神の名付け親』)

○芝浜荘
 港区浜松町にある『芝浜荘』は木造トタン屋根の二階建てで、上下に3つづつ部屋のある古びたアパートだった。アパートの前には小さな公園があり、『芝浜荘』は公園の脇道を抜けた所にぽつんと建っていた。
1階中央付近から2階に登る階段があり、1階の道路から一番離れた角部屋から101、102、103と並び、各部屋の入口の扉はベニヤ張りで上部の角がしごく当然のように浮いていた。
『101』号室の表示板の横には『取違(とりちがい)』と書かれた表札代わりの紙が申し訳なさそうに貼ってあった。
 夕焼け雲が辺りを覆っていた晩夏の公園では、疲れを知らない子供たちがサッカーボールを追いかけながら走り回っていた。そんな中、アパートから女性の怒鳴り声が響いている。
「ねぇどうすんのよ、これからどうやって生活するのよ!」と。

○101号室(取違家)
 芝浜荘の101号室は、他の部屋がそうであるように六畳一間の小さな畳部屋で、その家の土間には30歳とは思えない童顔の取違千栄が足元に旅行カバンを置き怖い顔で立っていた。彼女の後ろには7歳になるひとり息子の寛太が隠れるように身を潜め、野球帽の庇を目深にかぶり居間に目を向けている。
 淡い色のワンピースを着た千栄が居間に向かって叫んだ。
「あんたが競馬に生活費全部使っちゃったから電気も水道も止めらて、これからどうやって生活していく気なの!…ねぇ、聞いてるの!?」
 居間で背を向け横になっているは36歳、亭主の取違八郎だった。肌着姿の彼は競馬新聞を頭を隠しひたすら黙っていた。
「あたしは寛ちゃんと実家に帰りますからね!」
 千栄の声に何の反応も示さない八郎。
(ふざけんなよ、死んじまえばいいのに)小声で八郎を罵る千栄。彼女は旅行カバンを手に取り寛太の手を引くと、玄関のドアを荒々しく閉めて二人で部屋を出て行った。
 千栄の怒号や捨てぜりふに聞こえないふりを続ける八郎、そんな甲斐性なしの彼を見つめる家族以外の目があることに彼は気付いてはいなかった。

○芝浜神社
 芝浜荘から歩いて5分ほどのところに芝浜神社があった。大権現徳川家康ゆかりの神社は遠方からはるばる訪れる人も多かったが、地元の人たちも門前を通るたびに手を合わせ、頭(こうべ)を垂れてから通り過ぎていた。
 寛太の手を引いて芝浜神社の前を通り過ぎようとした千栄が立ち止まり手を合わせる。

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