小説

『水鏡』藤田竹彦(『死神の名付け親』)

「かぁちゃん、どうしたの」Tシャツに半ズボン姿の寛太が不思議そうに母親を見上げ尋ねた。優しい笑顔を寛太に向けて千栄が応える。
「寛ちゃんにこれからもずっと幸せが付いて回りますようにって神様にお願いしたのよ」
 母親の言葉ににっこりと笑顔を見せる寛太。「じゃおいらも神様にお願いしなきゃ」そう言って利発そうな息子は母の隣で手を合わせる。
「とぉちゃんと、かぁちゃんが仲直りしますように」
 寛太を見る千栄の目は潤んでいた。

○芝浜荘・取違家
 陽も落ちて、薄暗がりの室内では仰向けになったままの八郎がシミの付いた天井を見上げていた。彼は彼なりに考えているつもりなのだが、彼はいつも“考えているつもり”だけだった。
 体を起こしてあぐらをかき、ボリボリと頭をかいた指先の匂いをかいでみる八郎、油臭いのか汗臭いのか眉間に皺を寄せ指先に目を凝らす。
「こう暗いとなんも見えませんな」とつぶやく八郎。
 ひとまずローソクを捜しに立ち上がる八郎、台所の窓から差し込む薄明りを頼りに引き出しを開けると太く長い“百目ローソク”が彼の目に映った。
「へー、こいつは好都合だ」
 彼はローソクとその横にあったマッチを取り出し、ローソクを灯して流しにある小皿にロウを垂らすと、ローソクを皿の中央に立てて電気代わりにした。
 ローソクの灯りにホッとする八郎、ローソクを立てた小皿を持って六畳間に行くと、テーブルにローソクを置いてから再び横になり、天井を見ながらいつしか眠りに落ちていた。
 × × ×
 しばらくあって、八郎が眠りから目覚めたのは猛暑に近い暑さが原因だった。暦の上では晩夏だと言うが6月の暑さは、畳の上で汗をかいて寝ていた八郎の眠りを妨げるのに十分だった。汗ばんだ顔を両手で掻きなが首回りを強く掻き上体を起こす八郎が嘆く、
「だめだぁ、暑くて寝てらんねぇや」
 天井近くに掛けられた時計を見る八郎、時計の針は21時20分を指していた。テーブルの上のローソクはゆらゆらと炎を揺らしながら長いままだった。
 汗をかき喉の渇きに襲われた八郎、立ち上がり肌着をたくし上げると顔を拭いながら足に絡みつく競馬新聞を“チッ”と舌打ちして蹴飛ばしてから台所へ行き冷蔵庫を開いた。非常灯の灯りで見える冷蔵庫の中には何も入っていなかったが、代わりに嫌な臭いだけが八郎の鼻を衝いた。
「電気が止まればこういうことになるよなぁ~」

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