小説

『水鏡』藤田竹彦(『死神の名付け親』)

 ため息をついて冷蔵庫を閉める八郎、用を足そうとトイレのドアを開けるとユニットバスから異臭と共に熱気が彼を襲って来た。鼻と口を押え異臭を空いた手で忙しく払う八郎、
 蓋の無い洋式便器の中では汚れだけが彼を待っていて、コックを捻る八郎の耳には虚しくカラカラという音だけが響いていた。
「水道を止められるという事はこういうことだよなぁ」腕組みをしながら便器を眺める
 八郎。
「嫁さんが子供連れて出て行くのも、ごもっともなこってす」顔をゆがめつぶやく八郎、
 とにかく、まずは水の確保が最優先だと彼は思っていた。

○芝浜神社・境内
 薄暗がりの境内、粋(いき)に飾られた灯篭時計は25時を指していた。拝殿までの通りは暗く、参道脇に小さな手水舎がある。
 黒ずくめの服に薄汚れたリュックを背負った八郎が辺りを用心深く見渡しながら境内にやって来た。リュックの中には空の1ℓ用ペットボトルを4本入っている。辺りに人がいないのを確認する八郎、社殿に手を合わせ何やらブツブツ呟いている。
「許してくださいよ神様、アパート前の公園じゃ水道の蛇口を持っていった馬鹿がいたみたいでこうするより他に方法がないんですよ、あたしゃ」
 顔を上げ一礼する八郎、辺りを見回し手水舎の陰に身を隠すとリュックからペットボトルを取り出し柄杓で手水を入れ始める。1本、周りを気にしながらもう1本、更のもう2本。持って来たペットボトルすべてに手水を入れ終えた八郎、ペットボトルをリュックに仕舞うと、再び辺りを気にしながら薄暗がりの中に身を潜めるような仕草で境内を後にした。

○芝浜荘・取違家
 101号室の玄関ドアが開き、重くなったリュック背負う八郎が入って来た。明けたドアと台所の曇り硝子から月明かりが薄暗い室内に差し込んでいる。
 玄関ドアを開けたまま八郎は流しにペットボトルを置くと、リュックを放り投げ居間へ行って百目ローソクを手に戻り、それから玄関の扉をバタンと閉めた。
 流しでペットボトルの水を喉を鳴らしながら飲む八郎、風呂場から洗面器を持ってくると水を張り、顔を洗い、手拭いで顔、次に体を拭いてからローソクに湯呑茶碗、ペットボトル1本を抱えて居間へと移る。
 テーブルの前にどっこいしょとあぐらをかいて座る八郎、ローソクをテーブルに置くとペットボトルから湯呑に水を注ぐ。
「しかし、怒鳴られて出ていかれるって言うのも意外に腹が立つもんだなぁ、ふざけんなよって思うわな、流石の俺でも」
 薄笑いを浮かべ湯呑の水を飲み干す八郎、湯呑茶碗に再び水を注ぎ、神社からくすねた水を見ながら彼はいつもは気にも留めない思いを巡らせていた。

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