小説

『水鏡』藤田竹彦(『死神の名付け親』)

○芝浜荘・前
 公園をとぼとぼ歩く八郎、公園の時計は午後の5時を指し陽は陰り始めていた。
(もう時間がねぇなあ、あっ、どんな死に方をするのかまだ決めていなかったっけ)そんなこと考えながら、八郎がアパートに戻ってきた時だった。
 誰もいない、電気、ガス、水道が止められている八郎の家の電気が付いていた。
(女房が帰って来たのか?)ライフラインの復旧より(死ね前に思いを遂げられる?遂げられるのか?いや遂げて見せる!)わけのわからない喜びで興奮する八郎だったが、ふとあることに気づくと彼は慌てて家へとかけだしていた。

○芝浜荘・取違家・室内
 八郎が息せき切って家の中に飛び込んだ時、そこには八郎の姿に驚く千栄と寛太の姿が
あった。
「あら、どこ行ってたのお前さん。実家から追い帰されて、あたしたちも今帰った所だよ」
 そう行って小さく舌を出す千栄。
 千栄の隣では息子の寛太が流しに洗面器の水を捨てていた。慌てる八郎。
「どこ行ってたのじゃねえよ、よさねえかこの野郎」
 千栄の言葉を受けながら水を捨てる寛太の頭をこづく八郎、泣き出す寛太。
「何すんだい、洗面器の水が汚れていたから寛ちゃんが捨ててくれていたのに、叩くことないだろ!」寛太を庇いながら表情を変えて千栄が怒鳴った。
 空になった洗面器を眺めながら、八郎は弱々しい声で言う。
「何てことしてくれたんだ、この野郎」
 しょぼくれる八郎に少し気をもむ千栄だったが、脇で泣いている寛太の頭をこづいたことは許せなかった。寛太をなだめながら千栄が捲し立てる。
「その水が何だって言うんだい、公共料金はうちの親が払ってくれたから、水の心配はもういらないんだよ!…ねぇ聞いてるの?」
「そんなんじゃねえんだよ」八郎の声は弱々しいままだった。
 洗面器を手に悲しげな表情の八郎を不思議そうな目で見つめる千栄と寛太。
「あんたどうしちゃったの?」
口先だけの気遣いを見せながら台所から部屋へ移る千栄と母親の後ろにくっついて行く寛太。
 千栄の言葉は八郎に届いていなかったが、思い出したように顔を上げた八郎、洗面器を放り投げると慌てて千栄と寛太を追うように部屋へ飛び込んだ。
 八郎の目の前には茶箪笥から取り出したコップを手に持つ千栄がいた。テーブルの横には寛太が座っている。そして、テーブルにはローソクが消えずに灯っていた。
「おい、おめぇまさか…そいつでそれを消そうってんじゃねぇだろうな」身動きが取れないように固まった八郎の声は震えていた。
「当たり前でしょ、何だって日の暮れないうちからローソクつけてんのよ…しかもあんた出かけて留守にしてたし…火事にでもなったらどうすんのよ!」
 コップを手に寛太と向き合う様に座る千栄、コップをローソクに被せようとする。
 叫ぶ八郎「やめねぇか、この馬鹿野郎!」
 八郎の声に動ぜず、構わずローソクにコップを被せる千栄。
 右手を千栄と寛太に向けて差し出すような格好のまま、前のめりに倒れる八郎。彼の寿命はローソクの炎と共に尽きてしまっていた。
× × ×
 彼の右手は何を求めたのだろう?

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