小説

『水鏡』藤田竹彦(『死神の名付け親』)

 屈んで老婆に背中を見せる八郎、老婆は一生懸命手を横に振りしながら断っている。
「恥ずかしいことないから、相身互いって言うでしょ」
 老婆にしつこく迫る八郎だが、老婆は曲がった腰と同じ高さの頭を横に振るばかり、しばらく二人の押し問答は続いていた。
× × ×
 しびれを切らした八郎、青信号になると有無を言わさず老婆を脇に抱え、物を運ぶように急ぎ足で横断歩道を渡っていた。
(ひぇ~)と、もがく老婆を抱え横断歩道を渡り切る八郎。彼は老婆を下ろし顎の汗を拭うと、四つん這いで青息吐息の老婆に向かって言った。
「婆さん、礼はいらないからね」
 笑顔で老婆のもとを去る八郎。胸を張る彼の後姿は何故か自信に満ち溢れいるようだった。

○芝浜荘・取違家
 金杉橋から大門を抜け、東京タワーを目にしながら芝浜荘に帰って来た八郎、歌いながら上機嫌で玄関のドアを開ける。
「長ぁいぃ~夜をぉ~飛びぃ越えてみたぁ~いぃ~♪とくらぁ」
 靴を脱いで土間を飛び越える八郎、台所の『水鏡』でローソクを見る。しかしローソクは更に短くなっていた。
「やい死神、出てきやがれ!このかたりの死神野郎」怒りにまかせて叫ぶ八郎。
 天井から死神がすう~っと現れ八郎の横に並んで座った。
「どうしたい?相棒」
「相棒だと!縁起でもねぇ、どうしておいらのローソクは短くなってんだ」
「どうしてって、まだ徳のある善行をしてないからだろう」
「何いってんだよ、今えらく徳のある善行をしてきたばかりだったろ」
 肩をいからせ興奮する八郎。その姿を見てニコリとする死神。
「ありゃだめだ」
「何でよ」
「お前さんはあの婆さんが困っていると思ったんだろ?」
「ああ、だからおいらが手を貸してやったんじゃねぇか」
「それが間違い!いいかい、あの婆さんは道を渡りたいんじゃなくて、迎えの車を待っていただけなんだよ」
「へっ?」
「お前のおせっかいのせいで、元の場所に戻ろうとした婆さん、車にはねられて大怪我!もうすぐ寿命が尽きるところだよ、お前が連れて行かなけりゃあと数年は生きていただろうに」
「そんな馬鹿な、後のことまで責任なんてもてねぇって」と、戸惑う八郎。
「後の始末まで考えて行うのが徳のある善行ってもんだ」得意げに死神は言った。
 しょげかえる八郎、肩を落しまま彼は部屋から出て行った。

○港区・芝公園内
 ベンチに腰を降ろす八郎、焦点の定まらない目で足元を見ながら考えていた。
 (どうして人生裏目ばかりなんだろう)と。

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