小説

『夢が浮く、橋を渡る』行川優(『更級日記』『源氏物語』)

次の日、わたしが放課後に遊びに行くと、美恵子は何事もなかったかのようにコーヒーを淹れてレコードをかけながら、冗談めいた話をしてくれました。
木の葉が色づく頃、美恵子の絵はある展覧会で小さな賞を取りました。毎日のように美恵子の家に行っていたにも関わらず、「夢が浮く、橋を渡る」という題のその絵をわたしはその時まで見たことがありませんでした。
その絵の中では、黒く細い線で表現された雨が叩きつける中、一人の人間が笠をかぶって橋を渡ろうとしていました。 画面左下から右下へと伸ばされた木製の橋は高波にさらわれてほとんど倒壊寸前でした。しかし波から無数の手が伸びていて、その人の笠を剥ぎ取ろうとしています。波の中には無数の人がいました。ある人は絶望の表情を浮かべ、ある人は恍惚したように、ある人はただ虚空を見つめ、笠に向かって手を伸ばしていました。笠を被ったその人は、男性か女性かわかりませんでしたが、ただ困惑したように笠を手で押さえ、しかしどこか後ろめたそうな表情をしていました。橋の向こう側、遥か雲居にはわずかばかり太陽が覗いています。波はその太陽まで届き、無名の人々の手は太陽に向かっても伸ばされていました。むしろ人々が手を伸ばすということによって波は太陽まで伸び、雲の切れ目から漏れる陽光にほとんど浄化されていくかのようでした。
美恵子は砂州に木の生えただけの天橋立は出品しませんでした。
展覧会の次の日、美恵子はログハウスの前で一人焚き火をしていました。嘘みたいに青く高い秋の空に一筋の煙が上っていきます。「これ、食べる?」そう言って美恵子は串に刺さった焼き芋をわたしに手渡しました。「焦げてるかもしれないけど」。美恵子の頬は煤のついた手で拭ったのか、薄っすらと黒く汚れていました。真っ白な美恵子の肌が煤に穢されてしまったようで、美恵子がにっこりと笑いながら串を渡すと、なぜか心がざわつきました。おめでとう、そうしたざわつきを隠すようにわたしは言いながら、焼き芋にかじりつきました。「ありがとう」美恵子は静かに言いました。しかし、その時の美恵子は充実感にみなぎっていて、未だかつてなく美しく、しなやかでした。嬉しくないの、とわたしが聞くと、もう終わったことだしね、と美恵子は言いました。
「絵が完成したのはとっくの昔だから、今更賞だのなんだのいわれてもね」そう言って美恵子はいつものようにおどけて照れ臭そうに笑いました。なんだやっぱり嬉しいんだ、そう言ってわたしが美恵子の脇腹を小突くと、美恵子も楽しそうにわたしの脇腹を小突き返しました。
どうして、天の橋立の絵を出品しなかったの、とわたしが聞くと、あれが本当の天の橋立だよ、と美恵子は返しました。わたしは美恵子の顔を見ました。焚き火で空気がゆらゆらと揺れるのに従って、美恵子の髪先もほんの少しゆらゆらと揺れていました。美恵子の目は焚き火の照り返しで、薄っすらと炎が灯っているように見えました。
 そうだ、と言って美恵子は木の葉を払いながら立ち上がってログハウスに戻ると手に二つの大きな紙袋を持ってきました。これ、あげるね。美恵子に手渡された紙袋の中身をみるとレコードでした。
「わたし東京に戻ることにしたんだ。今学期から復学しないといけないし、卒業制作も提出しないといけないし。だからあげるね」
 突然のことにわたしは一瞬言葉を失ってしまいました。あっ、びっくりしてる、と美恵子がわたしのことを指差して笑いました。「このログハウスも持ち主に返すんだ。今引越しの準備中」。
 レコードを受け取ったわたしは、しばらく袋の中を見つめていました。袋の中からはエラ・フィッツジェラルドが見つめ返していました。

1 2 3 4 5 6 7 8