小説

『夢が浮く、橋を渡る』行川優(『更級日記』『源氏物語』)

 目の前にある焚き火は美恵子が描いてきた絵なのよ、とフィッツジェラルドは言いました。
 わたしははっとして焚火の方を見やりました。火には異常に黒く濁った煙が混ざっていました。染料が溶けているのだということにわたしはその時初めて思い至りました。
 なんで燃やすの? わたしは聞きました。
 せっかく描いたのに、なんで燃やすの?
「要らなくなったからだよ」美恵子は答えました。
 美恵子のその言葉にわたしはそれまでの人生で感じたことがないほどの怒りと寂しさを覚えました。
 なんでレコードは残すのに、絵は残さないの?
 わたしの体は固まってしまっていましたが唇は震えていました。美恵子は困惑と哀しみの混ざり合ったような表情を浮かべました。
 なんで、なんで、わたしのために絵を残しておいてくれないの!
 その一言を言おうとして、でもその一言を言ったら終わりだと思って、わたしは唇を噛んですんでの所で思い留まりました。
 星のへのきざはしなるためだよ、フィッツジェラルドは歌うように言いました。
 きざはし?
「もし、もしね、何か大きな出来事があって、あなた一人が生き残ってしまったとしたら、その後の人生をどうやって生きていけばいいと思う?」美恵子の声でわたしは現実の世界に引き戻されました。美恵子は染料が溶けて黒く濁った焚き火の煙に目をしばたかせて言いました。しかし声は強い意志を秘めていました。どういうこと、わたしは聞きました。
 美恵子はわたしの問いかけには答えず、「中に入った紙に、東京での住所が書いてあるから。よかったら遊びにおいでよ」そう言って美恵子はもう一つ焼き芋を渡そうとしましたが、レコードで両手が塞がっていたので受け取ることが出来ませんでした。美恵子は芋をわたしの口元まで持ってきて食べさせてくれました。でも無理にかじったものですから、口の中で砕けた破片が気管に入って、わたしはむせてしまいました。美恵子は自分の飲んでいたミネラルウォーターのペットボトルを手にとって飲ませてくれました。水を飲みながら、あっ間接キスだと思って、少し恥ずかしくなりながら、恥ずかしくなった分だけ多くわたしは水を飲みました。
美恵子はにっこり笑いましたが、わたしは何も言うことができず、その後言葉を二、三交わすだけでその日は帰ってしまいました。
 翌日ログハウスを訪ねたときには、もうアトリエはもぬけの殻になっていました。

 白加賀の梅から引き継ぐように次第に桜が花弁を身にまとい始める頃、わたしは東京にいました。入学式を終えたわたしは林立するビル群に圧倒されながら東京の街を歩いていました。時代が生み出す陽気な空気が街を覆っていました。街を行く人々は一歩一歩歩く度、自分が街に刻み込まれていくような全能感を顔に表していました。わたしの足はしかし、都会を外れていきました。
 そこは小さなお寺に併設された墓地でした。わたしが行くと住職は墓前へと誘ってくれました。そこに戒名をつけられて今はもう別の名前になってしまった美恵子の名が刻み込まれていました。無念でしたね、と住職は感傷を込めず言いました。そのことがかえってわたしに感傷を呼び起こさせました。

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