小説

『夢が浮く、橋を渡る』行川優(『更級日記』『源氏物語』)

「その時の感覚がどこにあるのか知りたくって、天橋立を描いてるのかもしれないね」美恵子はそう言って窓の向こう側を見ました。
梅雨が来て気団達が前線に立つ頃、わたしの心はしとしとと暗いのでした。高校三年生のわたしは進路を決めることが求められていました。就職をするのか、大学に行くのか、クラスでもそんな話で持ちきりでしたが、わたしにはそんなことを相談できる相手はいませんでした。
 その頃には、わたしはすっかり美恵子の家に入り浸るようになっていました。美恵子はある展覧会に向けてせっせと絵を描いていました。今思うとその時の美恵子には、雨の中で息を潜め獲物を待ち構える蜘蛛のような、ある種の野生的な鋭さがありました。ただわたしがアトリエに入ると、美恵子はそうした空気を一瞬のうちに消して、朗らかにコーヒーを淹れてくれるのでした。
その日はスピーカーの奥でビル・エヴァンスが「降っても晴れても」を演奏していました。
「好きに生きたらいいと思うよ。周りの人がとやかく言うかもしれないけれど、自分の人生は自分で決めるしかないんだからね」美恵子はそう言いました。
 でもわたしには好きに生きるということがわかりませんでした。そもそもわたしは何が好きで、何をしたいのかわからなかったのです。美恵子はどうして絵を描こうと思ったの、とわたしは尋ねました。すると、美恵子は何も答えずにしばらく黙っていました。
 長い沈黙でした。
 ピアノの音に混ざって雨の音が妙に大きく聞こえました。わたしは美恵子の家で初めて居心地の悪さを感じ始めていました。その時、スピーカーの向こう側でビル・エヴァンスが「いつか王子様が」を弾き始めました。あっ、とわたしが声を上げると「好きなの?」と美恵子が聞きました。わたしは頷きました。
「お母さんもね、好きだったな。いつか王子様が」美恵子は言いました。そこからしばらく、美恵子は言葉を続けることはありませんでした。美恵子は空白を埋めるように大きな伸びをしました。すると白い首筋に青い血管が首元の方からゆっくりと浮かび上がってまるで生き物のようでした。わたしはその時、それまで優しい姉のように感じていた美恵子が、急に具体的な輪郭を持った一人の人間として現れてきたように感じられて、なぜか身構えてしまいました。
「喜んでくれたんだ、お母さん」雨の合間を縫うように美恵子が言いました。
「保育園でお母さんの絵を描きましょうって授業があって、家に持って帰ってたらお母さんが泣いて喜んでくれたんだ。それで嬉しくなって、絵を描くことが好きになったのかな」美恵子の口調は朗らかでしたが、顔の筋肉はほとんど動いておらず、視線も遠くを見据えていました。
「ねえ、いつかお迎えって来ると思う?」と美恵子は尋ねました。わたしは意図を読みかねて、困惑した表情を浮かべたのでしょう。美恵子は、レコードプレーヤーを指さしました。
「王子様、来るかな?」
そんなファンタジー、あるわけないでしょ、とその時のわたしに言うことは出来ませんでした。来るよ、とわたしは言いました。すると、美恵子は満足したように小さく頷きました。でも本当のところそれはわたしが言ったのではなくて、美恵子が言ったに違いないのでした。

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