小説

『テロテロ坊主ゲロ坊主』ヰ尺青十(『オイデプス』『人、酒に酔ひたる販婦の所行を見る語:今昔物語集巻三十一第三十二』『太刀帯の陣に魚を売る媼の語:同巻三十一第三十一』)

 再びわざと間違えて、肩越しに右手を振り振り大股で歩き去った。
 雉野又、ようやっと便所にたどり着いて、
〈あーあ、ただでさえ痛風だってのに、頭の痛い仕事を押し付けられてしまったわい〉
 肥大した前立腺に圧迫された尿管を経由して来る尿をたらたらたらたらと尿圧低くたらしつつ溜め息を吐いた。



 どこかの厨房なのだろう。
 窓は無く、昼夜も判然としないまま青白い蛍光灯の光に照らされて、割烹着に頭巾を着けた若者らしき長身がひとり立ち働いている。注文伝票見ては丼物を作り、椀の汁と並べて出食口に置く。これを蜿蜒と繰り返すのかと見てるや、なんだか体幹がブレ出して、危なっかしくふらつき始めた。
 と、いきなり身を翻したかと思うや首を垂れ、背中がひくついた途端、一気に吐瀉物を放った。これ、すなわち、大和言葉で〈ゲロ〉、英語で〈ピューク〉という。
 お好み焼きの生地の中に紅生姜の赤やら桜海老のピンク、豚肉の茶色に青海苔の緑といった細かい色片が散らばるように、吐かれた小間物がベシャリ、コンクリートの上に広がる。
「うあっ、勘弁してよ、これ」
 局長室のスクリーンに大写しされた汚物を目にして、鬼沢剛一は顔を顰めた。
「ほんとよ、おれ、これからピッツァ食おうと思ってたのに」
 隣に座ってる多鬼村巌(たきむら・いわお)法務局長も嫌悪感あらわにするのに、
「まったくですねえ、わたしなんかクリームシチュウも駄目になりそうですわ」
 微妙に丁寧語を使って、同席者中で最年長の鬼怒川鉄吉・労働基準監督署長が同調する。局長たちは四十代、あと二三年もすれば本省に栄転するエリートなのに対して、鬼怒川は〈たたき上げ〉。既に六十の坂を越えていて、このまま魔羅丘で勤めを終えるだろう。
 動画が進む。
 画面が切り替わって、今度は焜炉(こんろ)にかけられてる大鍋と中の汁物が映っている。すると、間を置かずにジャバリ、スクリーンの上部から液体らしきものが飛び出て鍋に入り、赤いテロップで、
「当店名物〈げろの汁〉、今なら一杯100円どえ~す」
 モノが飛び込んだ鍋の中を掻き混ぜてるシーンで終りとなった。
 だから始めから終わりまで通して観ると、最初は床に吐いた若者が、次いで鍋の中に反吐を出したようにも見える。
「うへー」
 両局長が、鍋の汁とゲロとの攪拌動画との印象を持って、ともに嘆息するのも無理は無い。
 しかし、それは偽の印象である可能性もあって、降ってきたモノの出所が一切映ってないから、例えば椀に入った鍋の汁を上から注ぎ落しただけなのかもしれない。果たして投入されたのはゲロなのか汁なのか。困ったことに両者は、欠片(かけら)の色といい大きさといい酷似して、画面からは区別がつかないのだ。
 と、鬼怒川署長が、
「これ、あれですよ、〈けのじる〉じゃないですかね、〈けの汁〉」
 鍋の中身に場面を戻して静止拡大すると、
「やっぱりそうです、けの汁に間違いありません」

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