小説

『シェーベ』中村崇(『透明人間』H・G・ウエルズ)

     彼

 ダイニングキッチンは広々としていた。アイランド型キッチンは使い勝手がよく、整理がゆき届いていた。
 お湯が沸くのを待って、彼は年代物のミルで挽いておいた珈琲をドリッパーにセットした。ミルは鋳物でよく手入れされており、古いわりに手首に抵抗なく豆を砕いた。珈琲カップは鍋の中でお湯に温められている。完璧だった。
 珈琲は窓辺の小さなテーブルで飲んだ。窓から射し込む朝の光が爽やかだった。
 呼び鈴が鳴る。彼は玄関の方に目をやるが、すぐに興味をなくして珈琲に心を戻した。鍵が開き大勢が押し入ってくる音がする。
 いち早く足を踏み入れた男が部屋を見渡し、ダイニングテーブルの足下で視線を止めた。血を流して横たわる人々。キッチンをよく管理した妻とミルの手入れを怠らない夫。彼が使う寝室の持主である娘。その弟。男たちは彼に気づいていなかったが、彼は男たちの煙草の臭いが気になった。

 
    茜

 国道沿いのファミリーレストランは空いていた。大型車両の走行頻度が高いため、店内にも細かな振動が届いてくる。茜と彩が高校に入学して三ヵ月が経っていた。二人は小学生の頃からの仲良しだった。テーブルにはドリンクバー専用のグラスと二人の携帯電話。二人とも飲み物を変える度にグラスも変えるのが大人っぽいと感じて好きだったが、店員はグラスを下げず、だから飲み物を変える度テーブルにグラスが増えていった。
 彩の携帯電話が鳴る。ディスプレイには『ママ』の文字が表示されるが、彩は素早く切ってしまう。
「あ、ごめん。そろそろ帰らなきゃだよね」と、茜が言った。
「大丈夫、門限は破るためにあるんだから」
「でも破らせてばっかじゃん。私彩のお母さんに嫌われちゃうよ」
「うーん」
「ね、おねがい」
 彩は優しい。だからいつも甘えてしまう。家に帰ると思うと気が重くてつい声をかけてしまう。すると嫌な顔一つせずにつきあってくれる。いつもは割り勘だが、一回ぐらい奢らせてもらってもいいかもしれない。でも、そんな事されたら気にするだろうか?

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