小説

『シェーベ』中村崇(『透明人間』H・G・ウエルズ)

 食事を終えると、茜は稔を風呂に急かし、手早く洗い物を済ませて料理にとりかかった。夕食らしく、しっかりお腹にたまるよう、鶏肉の炒め物、プチトマト抜きのサラダ、ごはん、それから総菜の残り物の煮物を用意し、ピアノの部屋に向かった。食事をテーブルに置くと、ソファーに座って湯気の立つ料理を眺めた。

 
     彼

 彼は、女の子が服を脱いでゆくのを眺めた。女の子は途中で気配を感じたのか彼のいる方を振り向いたが、目が合うことはなかった。彼は女の子と一緒に浴室に入ると鏡越しに頭を洗うところを眺めた。同じ室内にいるのに、かまぼこ型の鏡に切り取られた風景の中で動く女の子を見るのは不思議で目が離せなくなった。鏡から女の子の姿が消え、衝撃音とともに壁際にまた現れた。鏡越しに、女の子がパニックに陥っているのを彼は見た。痛みよりも衝撃に狼狽えているようだった。彼は、鏡の中で女の子が消え、衝撃音とともに現れるのを何度も楽しんだ。シャワーヘッドが宙を舞い、床に落ちて暴れる。お湯がまき散らされ、彼にもお湯がかかった。女の子から表情が消えると、彼は飽きてしまって浴室を出た。廊下を歩くと濡れた身体から水が滴り落ち床に足跡を残したが、気にしない事にした。

 
     茜

 ソファーの上で目を覚まし、眠っていたと自覚するより早くテーブルを見ると、食事は完食されていた。身を起こして部屋を見回し、ピアノを見る。茜が昨日鍵盤をむき出しにした他は、ピアノはずっとそうだったように静かに佇んでいた。
「お母さん?」
 誰も何も答えない。しんとした静寂が跳ね返ってくるだけだった。
「プチトマト、きらいだったんだね」
 コッと音を立てて鍵盤のひとつが沈むと、水のように高いピアノの音が部屋に響いた。息がとまる。耳がドクドク鳴って天井が回る。茜は目を閉じて、ピアノの音が部屋に溶けて消えるまで耳を傾けた。目を開けると涙が頬を流れ落ちるのを感じた。
 突然ドアが開かれて稔が部屋に入ってきた。顔は硬直し、悲痛な目。父の尋常でない様子に、茜は糸で吊られたように立ち上がった。

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