小説

『謝辞』斉藤高谷(『はなたれ小僧様(熊本県)』)

 妻が出て行って三日になる。連絡は、まだない。
 出て行った理由はわからない。思い当たる節があるようでいて、直視すると霧のように消えてしまう。
 妻とは見合いで知り合った。会社の上司の紹介で引き合わされたのだ。特別に感情が燃え上がったわけではなかった。ただ漠然と「この女性と結婚するのだな」という予感があっただけだ。それは彼女も同じだったろう。我々は漠然したまま交際を始め、結婚する段になってようやく具体的な将来像を手に入れた。そこから家庭を築き、娘を成人させたのだから、それはそれで間違ったやり方ではなかったと思う。
 国内の通話とは違う呼び出し音が何度か繰り返された後、受話器を取る音が聞こえた。
「もしもし?」細い管の先から聞こえるような声は、どこか不機嫌だ。
「ああ、俺だけど」
「母さんなら来てないよ」娘は昨日と同じことを言う。「てか、こっち来るなら準備してる様子とかでわかるでしょ。大体母さん、パスポート持ってたっけ?」
「俺の知らない間に取ってたのかもしれない」
「それはあり得るね」
「なあ、もし母さんがそこにいるなら伝えてくれ。何が悪かったのか教えてほしいって。以後気をつけるようにするからって」
 ため息が海を越えてやってくる。
「最悪。だから日本の男って嫌い」
「何も言わずにいなくなられたら、どこの国の男だってこうなるだろう」
「妻が自分の気持ちを逐一表明すると思ってる時点で傲慢なんだよ。相手の気持ちを考えようなんてこれっぽっちも思ってない。相手に気持ちがあるとすら思ってない」
 私はいささかムッとする。
「俺は母さんを大事に思ってきた」
「父さんの中では、でしょ。母さんがどう思ってたか知ってるの?」
 言葉に詰まる。

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