小説

『謝辞』斉藤高谷(『はなたれ小僧様(熊本県)』)

 娘に言わせると、私には妻に対する感謝の気持ちが足らないらしい。
「日本の男なんて表情乏しくてただでさえ何考えてるのかわからないんだから、ちゃんと言葉にしないと感謝の気持ちは伝わらないよ」
「いちいち口に出していたら却って白々しいだろ」
 そう抗弁すると、「これだから日本の男は」といつもの調子でため息を吐かれた。
「面と向かって『ありがとう』って言えっていうのとは違うよ? まあ、それでも何も言わないよりマシだけど。あたしが言ってるのは、もっと自然に、日常の中で別の言葉で感謝を示せってこと」
「例えば何だ」
 私の問いに娘はため息を吐き、
「ご飯食べた時に『おいしい』って言うとか、そういうこと」
「そんなことなら」と言いかけて、もう何年も、いや何十年も、妻の作った料理に感想を述べた覚えがないことに気づいた。
「言ってないでしょ」
 私は黙っていた。
 買ってきた弁当は米がやたらと多く、半分しか食べきれなかった。減った分の料理の味は思い出せない。同じようにして、私は妻の手料理も口に運んでいたのだろうか。
 茶が飲みたいが、淹れ方がわからない。スーパーでペットボトル入りのを買わなかったことを心底後悔しながら、水道水で我慢する。朝刊を読んでいないことに気づいて郵便受けに取りに行く。朝刊の他に、回覧板が入っていた。
 ゴミ置き場の清掃当番や町会費の収集方法に関することが書いてあったが、私には何が何のことだかわからない。それよりも早く次へ回覧せねばという思いから、手近にあったチラシの裏に内容をメモ書きし、回覧板には確認印を捺して隣へ持って行こうと玄関を出た。だが、門を出た所で、両隣の姓が共に〈真弓〉であることを思い出した。片方は我が家が越してきた頃からいた〈真弓〉だが、もう片方の〈真弓〉は何年か前に越してきた若い夫婦の家だった。
「そんなに多くない名字なのに、偶然ね」当時、妻が楽しそうに話していたのを思い出す。私はそんなに面白いかと聞き流していた気がする。

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