小説

『謝辞』斉藤高谷(『はなたれ小僧様(熊本県)』)

 
 電話の向こうでは赤ん坊の泣く声がする。まだ写真でしか見たことのない孫だろう。あー、と娘が唸る。
「変な時間に掛けてくるから起きちゃったじゃん。いい加減、時差考えて」
「すまん」私は言って、「それで、母さんの居所なんだが」
「だから知らない。そんなに心配なら捜索願でも出したら?」
「それは大袈裟だろう」
「その程度にしか思ってないなら、待つしかないね」泣き声は一層大きくなる。「もう切るよ? こっちはこの子の面倒で手一杯なんだから。父さんは自分の面倒ぐらい自分で見て」
「あ、おい」
 一方的に通話は切られる。私は再び居間に一人になる。洗面所から甲高いアラームが聞こえてきた。

 
 溜まりに溜まった洗濯物を洗ったつもりが、洗面所が泡だらけになっていた。洗濯物にも泡が残っており、結局水道で洗い流す羽目になった。自分がどうしようもない人間に思えてきた。
 干しているだけで乾くのかと疑ってしまうほど水を吸った洗濯物を物干しに掛けていると、ゴミ収集車が家の前を通り過ぎた。台所に溜まっているゴミ袋を思い出し、慌てて階段を下りた。袋を持って玄関へ向かおうとしたら、袋の端がどこかに引っ掛かって中身が散乱した。床に散らばったゴミを拾っていると、またしても情けなさがこみ上げてきた。
 妻には何不自由ない生活を送らせられたという自負がある。少なくとも、金銭的な理由から「出ていきたい」と思わせたわけではないはずだ。妻を働かせるようなこともしなかった。私が稼ぎ、妻が家庭のことをする。娘からは「古くさい考え」などと言われるのかもしれないが、私たちはそうやって家庭を維持してきた。お互いにとって幸福だったとまでは言わないが、決して不幸ではなかったはずである。私は、自分が果たすべき役割は果たしてきたつもりだ。

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