小説

『謝辞』斉藤高谷(『はなたれ小僧様(熊本県)』)

 あの時真剣に取り合って回覧板の順番を確認しておけばよかったなどと思っても、後の祭りどころの話ではない。妻が楽しそうに話していた珍しい名字の偶然が、今は恨めしくて仕方がない。
 私は自宅の門の前で、回覧板を手にしたまま途方に暮れる。一人では、右に行くか左に行くかも決められない。とんでもなく無能な生き物として、道の真ん中に立ち尽くす。


   ◇


「一遍思い知らせてやった方がいいよ」海の向こうから聞こえてくるあの子の声は、距離の隔たりを感じさせないほど息巻いていた。
「でもお父さん、一人じゃ何もできないから」
「そうやって甘やかすからダメなんだって。一人で困り果てて、母さんのありがたみを痛感させてやればいいんだよ」
 丁度、親友から旅行の誘いがあったのだ。お互い子供も手を離れたことだし、旦那をほったらかしてどこか行こう、と。積極的な人だから、行き先から日程から、あれこれテキパキと決めてしまった。夫に話す時には既に行きの電車の時間まで決まっていた。娘に先に話したのは、たまたまあの子から電話が来たからだ。
「黙って行っちゃいなよ」
 わたしが旅行の話をすると、あの子はそう言った。そんな発想全くなかったから、心の底から驚いた。同時に、妙に魅力的な提案にも思えた。
 それから娘にあれやこれやと言葉を重ねられ、夫には黙って行くことにしたのだった。娘の言い方が上手かったこともあるけれど、わたしの中に娘の提案を受け入れる気持ちが少なからずあったことの方が大きかった。わたしは特に書き置きも残さず、寝ている夫を残して早朝の家を出た。
 親友の運転するレンタカーでの旅の間中、夫のことを考えていた。正確には、夫が家のことをきちんとできるかどうか、という点だ。朝ごはんは作れるのか。洗濯や掃除はできるのか。水びたしのうえゴミが散乱した家で、一人お腹を空かせている夫の姿がどうしても浮かんできた。
 夫の様子は、娘が電話を掛けて確認してくれることになっていた。警察に捜索願を出すなど、余程のことが起きた場合にはこちらから連絡するつもりだった。
「父さん、だいぶ参ってるみたいよ」国際電話越しに、娘は嬉々として言った。「帰ったら泣いて縋り付いてくるかもね」
 夫が泣く姿などもう何十年も見ていないのに、その光景は思い出すように想像できた。その中で、泣きわめく夫を見下ろすわたしは笑っていた。

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