小説

『ふれた』白井綿(『お階段めぐり』(長野県))

「わっ」
 歩みを止めた男の背に、ドンと大きな衝撃が加わる。
 その突然の衝撃は、彼が懐の中に入れていた遺書をハラリと落し、どちらかの足がそれをさらに暗闇の方へと追いやった。しかし、そのことに男は気が付いていない。
「すいません、急に止まって」
「いえ、でもどうしたんです?」
「行き止まりです。ここにあるはず」
 息を飲む音が頭の後ろで聞こえる。
 遂に、鍵があるであろう場所に辿り着いたのだ。真っ暗な中では、本当にそこに鍵があるのか、触ることでしか確認のしようがないのだが、どちらも手を伸ばさずそこに佇んでいる。
「……今日、鍵を触ってから自殺するつもりだったんです」
「じ、自殺なんてするもんじゃないですよ!」
 噛みつくような勢いで発せられた真っ直ぐな言葉に、男は自嘲気味に笑って、「はい。俺もそう思います。今歩いている間に気が変わりました。あなたと話していたら、俺だけが地獄に居るんじゃないってわかったんで」と答えた。
「当たり前ですよ。でも、よかった」
 ホッとした表情が目に浮かぶ。
「そう言えば、あなたは何でここへ?」
 男が尋ねると相手は先程とは打って変わり、「いや……」と口ごもった。男はハッとした。同業者だからと甘んじてしまったが、どんな相手であっても言いたくないことを答えさせる訳にはいかない。
「すいません、癖で」
「自分も言わせてください」深呼吸に続き、「本当はこの鍵を盗むために来たんです」と苦しそうな声がする。
「盗む⁉」
「上司から言われて、嫌だったのに断れなくてここまで来てしまいました」
「そんなことするもんじゃないですよ!いいですよやらなくて!」
「自分も歩いている間に気が変わりました。あなたと話していたら、地獄で自分だけがこういう想いではないとわかったので」先程までとは打って変わった明るい声。
「当たり前ですよ。でも、よかった」

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12月期優秀作品一覧

 どちらともなく出した手は、寸分違わず相手の手と合わさり、しっかりと握られた。
 互いの手は、それぞれが想像していた感触とは少し違い、一方は、やけにつるんとした、もう一方は、やけに大きく鋭い爪があるものだった。しかし、今の二人にそんなことはどうでも良かった。顔も知らぬこの誰かのおかげで、地獄を生きる力が生まれたのだ。
 暗闇の中で二人は、お互いのことが見えているかのように頷き合う。
「じゃあ、自分はもう行きます」
 男の手から大きな手がふわりと離れ、温かい感触だけが張った空気の中に残った。暗闇で出会った彼らは、暗闇で別れる。
「同じ地獄にいるんだからまたどこかで会えますね」そう言って、少しずつ遠ざかっていく足音を男は見詰めていた。
 再び自分の鼓動と吐息しか聞こえなくなった闇の中、男は振り返り、自分が居る場所とは真逆の場所への扉を開ける鍵がある方向をチラリと見てから、もと来た道に帰っていった。

「え?」
 地上に出た男は、絶句した。
 先程とは比べものにならない優しい暗闇の中、遠くの方に見えたのは、鬼の後ろ姿。
 男が暗闇で出会ったのは、鬼だった。
「……やっぱり人間じゃなかったのか……」そう呟いた男は、相手の言っていた“地獄”が比喩ではなかったことに気付き、笑えてきてしまった。
 シンとした空気の中に、男の笑い声だけが響く。笑いながら彼は、あの鬼が居るのなら極楽浄土ではなく地獄も良いかもしれないと思った。
地獄にしろ極楽にしろ、彼がその行き先を知るのは、もう少しこの世の地獄を歩いてからだが。

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