小説

『ふれた』白井綿(『お階段めぐり』(長野県))

「地獄だ」
 男がひとり、冬の夜の街をフラフラと歩いている。
 まだ二十八歳だというのに、その顔はやつれ、灰色のスーツは依れて風に吹かれている。大学を卒業して新聞記者となってから、買い換えに行く暇もなく着続けているからか。
 長野の十二月。深夜二時。この寒さの中、街へ出ている者など殆どいない。最も賑わっているはずの駅前でさえ、両手で足りるほどの人数しかいないのだから、少し裏の道に入れば人っ子一人居ないのも当然だ。
 彼は、あてもなく歩いている訳ではない。善光寺に向かっているのだ。
 彼がこんな夜更けに善光寺を目指すことになったきっかけは、今日の昼間。何の当てもなく、しかし同じスーツで、ただ街を歩いていた時だった。街には、少し早めの年末休みに入った観光客の団体がそこかしこにいた。「ふざけるな」と心で悪態をつきながら、その横を通り過ぎようとした時、ある会話が男の耳に入ってきた。
「善光寺のお戒壇巡り楽しみ~」
「ね~、鍵に触れたら、極楽浄土に行けるんだもんね~」
 善光寺のお戒壇巡りとは、本堂の最奥にあるご本尊の真下を通る真っ暗な通路を、触れると全員が極楽浄土へ行けるという“極楽の錠前”を探して進むというものだ。
 その話を聞いた時、彼の心に何故だか、絶対に行かなくては、という気持ちが浮かんだ。そして今に至る。男は、昼間の会話を思い出し、フンと一つ鼻で笑った。
「出来るものなら、俺みたいな奴も極楽浄土に連れて行ってみろ」
 無意識に五年間着続けた仕事着の胸ポケットに手が伸びた。そこには、遺書がしまわれている。
 男は、今夜自ら命を絶つのだ。

1 2 3 4 5 6