小説

『ふれた』白井綿(『お階段めぐり』(長野県))

 遺書には、彼を取り巻く社会状況への嘆きや、記者という過酷な仕事場で、自分がどのような仕打ちを受けてきたかなど様々な事が書かれているが、それは裏を返せば何か決定的なことがあった訳ではないということ。本当のところの理由は、全てが嫌になったから。二十八年間の蓄積が、男をこの地獄のような世から離脱するという選択をさせたのだ。
 善光寺には誰も居ない。初詣でもご開帳でもない今、人が居ないのは当然で、シンと静まり返った辺りの空気が厳かな雰囲気をより際立たせている。
 男は、念のため賽銭箱に五円玉を放り、二礼二拍手一礼をした。そしてさらに奥、本殿近くに進もうと思ったとき、ふと足が止まった。
「警備員に捕まるかな……逮捕されるのかな」
 口をついた常識をフンと小さく鼻で笑った男は歩みを進める。どうせこの後すぐに死ぬのだ、このぐらい良いだろう。
 “お戒壇巡り順路”と書かれた指示に従い進むと、ご本尊の下に続く階段があった。上から覗いて見える段は三段ほどで、それより先は何も見えない。男はぐっと息を飲み、ゆっくりと闇の中へと足を踏み出した。
「本当に何にも見えないな」
 階段を降りきった先には、想像よりもさらに深い闇が広がっていた。非常時誘導灯やちょっとした灯りがあるものだと当然のように思っていたが、そこには光を放つ物が何一つない。男は、今までに経験したことのない本当の闇に、死んだらこんな感じなのかと、ぼんやりと思った。
 それにしても、どちらに進んだら良いか全くわからない。目の前が見えないどころか、視界が無くなったかのような感覚に陥る。恐怖と、ここまで来て引き下がれない気持ちを抱え、ただひたすら進んで行く。
 男が一歩踏み出す度に木で出来た床が立てる、ミシミシという音だけが響いている。

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