小説

『ふれた』白井綿(『お階段めぐり』(長野県))

「まあ、死ぬほど怒られましたけどね」
「いや、まず断ったことがすごいですよ」心からの褒める声に続いたのは、「自分は断れずに中途半端に追い詰めて怒られるんです。それも沢山の人間がいる前で、もう面子丸つぶれですよ」と、苦虫を噛み潰した様な声。男は、仲間が人前で怒られている姿を想像し、顔をしかめた。
「まあ、自分が悪いんですけどね」
「やめましょう、そんなこと、俺もやめたんです」そう強く言った男は、今まで誰にも言えなかった話をした。
 周囲からの視線が怖くて、自分の弱さなど到底口に出来るものではなかった。ましてや、記者という実力主義の世界ではなおさら。こんなに恥ずかしい話が出来たのは、きっと暗闇の中だからだと男は思った。
「耐えきれなくなってやめたんです。別の世界に行こうと思って」
「……その後はどうなったんですか?」焦るような、懇願する様な圧が男を包んだ。
「やめられたんですが、違う世界に行くのは失敗でした」
「……そうでしたか」
 哀しさを含んだ丁寧な声は、一呼吸置いて「……でも、自分に似た思いを持っている方に会ったのは初めてなので、本当に嬉しいです」とさらに丁寧な声に変わり二人の間に漂う。
 その声は小さく少し震えていて、男は、今までの鬱々としていた気持ちが溶けていく感覚がした。
 お互いの顔も知らない二人は、暗闇の向こうにいる相手に向かって言葉を渡し合いながら、さらに歩みを進めた。

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